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断捨離の果て

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 助かられない命を意識し始めたのだ。
 最初は、
「助けられる命だけでも助けたい」
 と思っていた。
 例えば、目の前で大きな船が沈もうとしている。それを救助しようとたまたま自分が乗った救助船が差し掛かった。その船は豪華客船で、あまりにも大きなものなので、近寄るだけでも難しい。それでもm助けられる命を助けるのが自分の役目だと思ったのだ。
 実際に近づいて、救急に従事していると、思ったよりもたくさんの人を助けてあげられることができ、満足している。しかし、助けようとしていると、船が大きく反り返り、今でも自分たちが危なくなっている。
 船の中では助けを求めてこちらに手を振っている。その姿が瞼に焼き付いている。
「助けられる人だけでも助けられればそれでいいんだ」
 と思っていたが、いざ助けを求める人の顔を見ると、助けることのできない自分がまるで悪者のように思えてくる。
「しょうがないじゃないか」
 と、言っても、
「はい、そうですか。じゃあ、我々は死んでいきます」
 と素直に従う人がいるわけもない。
 ただ、放っておけば全滅するところを助けられる人だけでも救おうというのがいけないことなのか、自問自答を繰り返してしまう。
 いくら助けられる人を助けたとしても、助けられなかった人の顔がチラついて、寝ていてもうなされることだろう。
「どうして助けに入ったこの俺が、こうも悩まされなければいけないんだ?」
 と理不尽に感じることだろう。
 それなら最初から慈善行為などをせずに、
「私には無理です。乗組員の生命の保証はできません」
 と言えばよかったのだ。
 乗組員の生命を口にすれば、たいていのことは、許容範囲であろう。
「言い訳までしなければ自分の正当性を説明できないなんて」
 これこそ理不尽ではないだろうか。
 助かった人に何を求めるのか、ただの感謝だけでは補えないほどの失ったものが大きかったと言えないだろうか。
 人を助けたのに、なぜこんなにも悪者を自らで演出しないといけないのか、それを思うと、
「理不尽というのはこういうことか」
 と思わざる負えなかった。
 ペットにしてもそうである。救える命と救えない命が存在することは最初から分かっていた。その境界線をどこに置くか、それを分からないままに先に進むことで、その場の成り行きというべきか、
「早い者勝ち」
 が、この場合の公平さになるのだ。
 そもそも、早い者勝ちが公平であるということに最初からしてしまっていれば、余計な紛争も起こらず、結構平和に国際情勢も変わっていたかも知れない。
 いや、早い者勝ちというのは、結構公平なのではないだろうか。くじ引きであったり、抽選などは、最初の始まりが公平というだけであって、いわゆる運によって左右されるのであるから、運というものを公平だと考えるか、早い者勝ちを公平と考えるかの違いである。
 早い者勝ちには、どうしても、いくつかの理不尽が先に思いつく。しかし、運に関しては理不尽かも知れないが、ハッキリと明言できることではない。だから、運に頼ってしまうのではないだろうか。
 だから、理不尽が蔓延り、何が正しいのか分からなくなってしまう。それが、今の世の中なのではないだろうか。
 動物を助けられないのと人間を助けられないという考え。どちらも同じものであった。
「人間が一番なのは当たり前じゃないか」
 と皆いうだろうが、何が当たり前なのだろうか。
 当たり前というのは、理屈がハッキリしているののを、優先的に考えるということであると思うと、理屈的に分かった気がしてくる。
「当たり前とハッキリと言えることが世の中にどれほどあるというのか?」
 と、思うのは仕方のないことなのだろうか。
 松本先生が、いつもそんなことを考えていると、似たような思いでいる人が、こんなに近くにいるとは思わなかった。
 それは松本先生も同じ思いであったが、もう一人の人も、
「まさか松本先生が」
 と言って、大喜びしたようだった。
「いやあ、松本先生というと、理不尽の欠片もないような人で、自分のことはどうでもいいから、人を助けるというくらいの聖人君子だと思っていたので、先生には申し訳ないが、先生も自分と同じ一人の人間だったんだと思わせられて、これほど愉快なことはないんだよ」
 とその人は言った。
「君だって、私から見れば、まったく理不尽など関係のない人に見えていたんだ。なぜかというとね。君には余裕があるんだ。気持ちの中に余裕がなければ、まわりのことが見えるはずなどないんだ。皆見えているように言っているが、しょせんは何も見えていない。それこそ錯覚であり。錯覚を勝手に見えているところが人間の人間たるゆえんで、本当は指摘してやりたいのだが、指摘すると、恨みを買いかねない。その人にとっては、絶対にまわりに知られたくないことだからね。皆に隠そうとしているのに、誰か、しかも、中立に見えている人から指摘されると、きっと全員に見切られてしまっているような思いを抱くでしょうね。だから、恨みも深いのさ」
 と先生は言った。
「余裕ですか、余裕ねぇ。そんなものが少しでもあれば、きっとずっと一人でいるのかも知れないですね。それこそ聖人君子の仙人のような人ですよ。人と関わろうとするのは寂しいから。寂しさを少しでも紛らわそうとするから人を欲するんですよね。まるで将棋のような気がするんです。将棋というのは、最初に並べた布陣が、一番隙のない布陣だと言われているようですが、まさにその通り。動けば動くほど隙ができる。せっかくあった百パーセントが九十九になって、九十になっていく。つまり減算法で減っていくということですよ.」
 とその男は言った。
「なるほど、減算法という考えですね。確かにそれはあると思います。将棋は減算法で、囲碁は加算法というところでしょうか?」
「ええ、うまく考えられたゲームと言えるんじゃないでしょうか? しかも昔からあるゲームなんですけどね。これこそ、ルールに基づいた単純であるが、奥の深いゲームと言えるでしょうね。しかも、気持ちに余裕がなければ、相手とは勝負にならない。始める前から勝敗は決していたと言ってもいいかも知れませんね」
 この男もなかなかいうものだ。
「私はペットたちを助けるために、この裏にプレハブのようなものを作ったのだが。最初は少しでもいいと思っていたペット救済のはずだったのに、どうしてペットを助けられないことがここまで自分を苦しめることになっているのかって分からなくてね。しかも自分ではいいことをしているんだからと言い聞かせれば言い聞かせるほど、それが虚しく響くんだ。もう一人の自分が、まさかこんなに厳しい人間だったとは。思ってもみなかったですよ」
 と言った。
「そもそも、自分が何を助けようと考えること自体、おこがましいと思ったことはないのですか?」
 と言われて。先生は愕然とした。
 確か小学生の頃に自分が何もかもおこがましい人間に見えたことがあり、そのせいで何もできなくなり、先生からかなり怒られたことがあった。
「何も考えなくてもいいから、先生の言うとおりにすればいいの」
 と言われた。
作品名:断捨離の果て 作家名:森本晃次