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断捨離の果て

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「そうか、あのペットたちを収容しようと思っているんだな?」
 と、マスターもペットの将来について憂いていた一人であった。
 この問題はペットだけではなく、人間側もロクなことにはならないと思っていただけに、先生の発想には感服していた。
「君も賛成してくれるんだね?」
「ああ、もちろんさ。大いにやってくれたまえ」
 と、マスターが背中を押してくれていた。
 しかし、これがこの痕、比較的近い将来に、先生を追い詰めることになろうなどと、マスターは考えていなかったに違いない。
 ペットたちが続々と増えてくる間はよかった。そのうちに、
「俺がノアなんだ」
 と感じるようになり、救済という気持ちが次第に高まってくると、ペットの数に小屋が追い付いてこないという分かり切っていたことに、直面することになった。
「少しでもいいからと、最初から感じていたことではないか」
 と思っていたはずなのに、今の自分がそれだけでは我慢できなくなっていることに、最初は気付かなかった。
 しかも、それが自分のおこがましい理想が根底にあるなど、想像もしていなかった。
「これが世の中なんだな」
 と感じたが、すぐに分かったわけではない。
「すべてを助けられなければ、今の俺の行為は一体何なんだ?」
 という思いを感じていた。
「そうだ、皆がやらないのは、すべてを助けられないから誰も何もしないんだと思って、そんな世間を憂いていたはずだ。それなのに今の自分はどうなのだろう?」
 と考えるようになった。
 世の中というものに、いかなる理不尽さを感じるか、今だけのことではなく。将来的にもたくさん出てくるはずだ。
「もうこんな年になった」
 という思いは結構ある。
 すでに五十歳を過ぎて、六十近くなってきて、やっと気づいたことである。
「先が見えてくると、今まで見えなかったものが見えていると思っているはずなのに、昔を振り返ることも結構ある。どちらへの思いの方が強いんだろう?」
 と考えるのだ。
「すべてのペットを助けたいが、絶対にそんなことは無理だということを分かっていたはずなのに、いまさら思い知らされるなど、本末転倒な気がする」
 という思いが、松本を苦しめ、ジレンマに陥らせてしまう。
 もちろん、松本先生自身、このジレンマを感じていることだろう。しかし、
「もうこの年になってくると、先が見えている」
 という思いが、次第に何かの言い訳にしか使っていないことに気付く。
 それが本当のジレンマの発症ではないかと考えるのだが、果たしてそれだけのことなのだろうか?
 途中まではできている。確かに橋を渡り始めているのだ。だが、先が見えているのに、先に進むのは怖い。かといって戻るのも恐ろしい。断崖絶壁にかかっている縄梯子の途中で、立ち止まった気分だ。
 本当は立ち止まらず、後ろも振り返ることなく、前だけを見てゴールするべきだったのだ。余計なことを考えてしまって、その影響で下を見てしまった。恐ろしさから後ろを振り向く。かなり来てしまったことに気づくと、まったく動けなくなってしまった。
「ジレンマ」
 という言葉に挟まれて、生きているということすら分からない状態になるほど、精神的に病んでしまっているのかも知れない。
「俺は一体。どうすればいいんだ?」
 橋の上にいる松本先生を、自分で想像するのがどれだけ恐ろしいか、身に染みて感じていた。
 松本先生は、世の中の理不尽を憂いていたが、何よりも自分に対しての理不尽を憂いていた。
 他の人のためにすることが美学のように今の世の中では言われているが、自分のためにすることを一番にして何がいけないのだろう。
「人は一体、何のために生きているのか?」
 ということを考えた時に、思いつくのは、まず
「何が正しい」
 ということを求めようと考えるのではないか?
 だが、何が正しいのかを追い求めていると、負のスパイラルに落ち込みそうな気がする。なぜなら、を、何をもって証明するのかが問題になってくる。
 誰が証明してくれるのか。その人が、
「証明する」
 と言って、自分を始めとして、誰もがその人のいうことであれば、すべて信じられるというのか、それこそ本末転倒であり、なぜならそんな強いカリスマ性の強い人間の出現を、普通は皆恐れているからだ。
 それは歴史が証明しているではないか。
 例えば、第一次大戦の後のドイツなどがいい例ではないか。敗戦のため、連合国から多額な賠償金を強いられ、しかも領地も奪われ、軍備も縮小を余儀なくされる。その理由としては、
「大国の復活を警戒するから」
 であり、飛車角落ちの状態にして、手も足も出なくさせなければ、こちらが危ないという考えだ。
 しかし、実際には手負いのオオカミの恐ろしさを知らなかったがために、ヒトラーの台頭を許してしまうことになる。
「強いドイツの復活」
 を唱え、演説とパフォーマンスによるプロパガンダで、強く国民を一つにした。しいたげられた者が、強い力によって立ち上がっていくという姿に、ドイツ国民はヒットラーにナポレオンを見たのかも知れない。
 ヒトラーが、
「ドイツが欧州を席巻し、大帝国を建設する」
 と言えば、誰もが期待し、応援する。
 それがナチスの台頭であり、ヒトラーを独裁者に仕立てたのだ。
 そのことに元々の勝者が気付いた時には、時すでに遅かった。
「しょせん、ヒトラーには何もできない」
 と、完膚なきまでにやっつけた相手なので、復活はないと感じていた連中にとっては。なかなか気づかなくても当然である。
 だが、気付いた時にはすでに噛みつかれていて、逃れることは不可能だった。
 もし、あの時、ヒトラーに野望がなくて、国民のための戦争であればどうなっただろう?
 ある程度、ヒトラーの思惑通りに戦局は進んでいたのではないだろうか。
 そうなると、世界はドイツに席巻されていたかも知れない。考えただけでも恐ろしい。
 だが、結果は、ドイツが席巻していた世界とどう違っただろう。ほとんどの都市は廃墟になり、押収、アジアと、復興にかなりの時間がかかる。しかも、戦後が独立運動が盛んで、戦勝国であっても、植民地が次々に氾濫を起こし、独立していく。戦争には勝ったとしても、結局はどうしようもない状況だった。
 世界の混乱を思えば。戦争が何をもたらしたのか、まったく分からない。それは犯罪にも似ているのではないだろうか。凶悪犯が発生し、いかに大義名分が存在していても、ものが犯罪であれば、どこまで許されるのか微妙である。
 戦争も理不尽であれば、犯罪も理不尽である。
 考えてみれば、人一人一人が理不尽だからこそ、集団で行う戦争も理不尽であり、犯罪も理不尽なのだろう。
 人生を何が正しいのかと考えてみると、まず正しいのは自分が生きていることである。戦争中などは、
「陛下のために」
 ということで、命を捨てる兆候にあったが、それが本当に悪いことなのかどうか、誰が証明してくれるというのか。昔は教育でそういう考えが美学だったのだ。今の考え方だけを考慮して、
「その考えは間違っている」
 というのは、本当にいいのだろうか。
 松本先生は、ペットの一時預かりに疑問を感じていた。
作品名:断捨離の果て 作家名:森本晃次