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断捨離の果て

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 プレハブ小屋はまもなくできあがり、餌もそれぞれに用意して、中ではペットの種類ごとに飼えるようにはしていた。
「まるでノアの箱舟のようだな」
 と先生はニッコリと笑いながら言ったが、少なくともこの時の先生は、自分が考えていることがすべて正しいと信じ込んでいた。
 もっとも、それくらいの意志がなければ、続けられるものではない。中途半端な気持ちからわざわざお金を出してプレハブを作り、そこにペットを収容しようなどと、そう簡単に考えられるものでじゃないだろう。
 最初こそ、ペットたちは警戒してなかなか寄り付かなかった。しかし、一匹でも中に入ると、その仲間が少しずつ増えてきて、ペットの種類という枠と超えて、中に入ってきた。
 中にはペットごとに餌も別れておいているので、ペット同士で喧嘩することもない。松本先生の考えは図に当たっていた。
 ノアの箱舟を想像したのは、聖書の一節からだった。
 神が、自分の作った人間の堕落を見て。一度人類を滅ぼそうと考え、自分の選んだ子孫繁栄のための、浄化を免れた人間、ノアに箱舟を作らせ。その中に人間と各種動物のつがいを詰め込み、これから起こそうとする浄化のための大洪水をやり過ごさせようというものだった。
 このプレハブに集まってくるペットたちは、大切な命であり、ノアの箱舟伝説でいうところの、
「種の保存のために選ばれた動物たち」
 のような気がするのだ。
 人間のエゴのため、その寂しいという一瞬を埋めるだけで飼われた彼らは、その人間がそのまま飼うことだってできるのに、危機が去ったという意味で、さっさと捨ててしまう。まるでまだ使える道具を感嘆に廃品回収に回すようなものである。
「最初にどんな気持ちで飼おうとしたのかという思いを忘れなければ、こんなことにはならないのに」
 と同じ人間でありながら、そんな飼い主に対して、恨みしか浮かんでこない。
 そもそも、松本先生というのは、人間嫌いであった。医者ではあるが。別に真剣に人を助けようなどと考えているわけではない。
「仕事だから仕方がない」
 という程度であった。
 医者だからと言って、皆が皆、聖人君子というわけではない。
「仕事だから、医者としての仕事をまっとうするだけのことだ」
 と考えている人も結構いるだろう。
 学校の先生だってそうだ。
「先生だから、子供の味方だというわけではない。子供が逆らうのだって。こっちは我慢するしかないんだ」
 と、親からはいろいろ言われ、世間からも言われる。
「本当に溜まったものではない。苛めの問題にしても、体罰にしたって、なんで教師が皆悪者にならなければいけないんだ?」
 というのが本音なのだろうが、それももっともな話だ。
 親もすべてを学校に丸投げする人もいるし、学校は勉強をするだけの場所のようにしか考えていない親もいる。温度差の激しさをすべて一緒のように受け止めようとしても、できるはずがないことに気付いていないのも、教師側が不利な点でもあった。
 誰にも文句を言えず、憤りだけを抱えているのは、教師も医者も同じだろう。
「なった自分が悪いのか?」
 と自分を責めたりもする。

                人間の理不尽さ

 もちろん、人間の理不尽さというものは、学校の先生や医者だけに限った者ではない。サラリーマンだって悲哀がないわけではない。むじろ上司との関係、取引先との関係は、相手に絶対的な優位性があるという意味で、先生や医者と同等なのかも知れない。
 年を取ってくると分かってくることであるが、
「毎日、少しずつでも成長するのが人間だ」
 などということを子供の頃にいわれた。
 それが親からだったのか、先生からだったのか忘れたが、それを当たり前のことのように松本先生は考えていた。
 だが、成長っていったい何なのだろう?
 本を読んで勉強し、それを身に着けることなのか? それとも、自分で毎日新しいことを感じることなのか?
 だとすれば、一年間で三百六十五個、何かを感じなければいけない。
 しかも一つ一つが少しでも違っていなければいけないのだから、普通に考えても難しいことだ。
 それよりも、毎日少しずつ増やしていくことに目標を置くと、まったく感覚が違うことに気が付く。
 例えば日記をつけたり、絵を描いたり、何かを作ったりなどである。それが同じことでもいいのだ。むしろ同じことの方が継続という意味ではいいことなのだろう。
 人によれば、
「そんなものは自己満足にしかすぎない」
 と言っている人もいるだろう。
 しかし、自己満足の何が悪いというのか、自己満足もできない人間が、人に満足を与えられたりできるはずもない。
 社会での自分の立場は、
「働く」
 ということである。
 働くという言葉の起源として言われているのは、
「傍が楽をする」
 つまり、
「はたらく」
 ということである。
 まわりが楽をできるように、自分が起こす行動だというが、これはただの美学でしかない。本当は、金銭という見返りがあり、その金銭で自分が生活をしていくためのものである。つまりそこに自分を誰かが楽させてくれるという発想などどこにもないのに、
「何が、傍を楽にするだ」
 と言いたくなるのも無理もないことだろう。
 しょせん、何かをするには、大義名分がいる。だから生きるための大義名分として、
「一日一日何かを得る」
 というのは、大切なことかも知れないが、果たして本当に毎日少しでも違ったことを得られるという人がどれだけいるだろう。
 先生の思いとしては、
「そんなのは、限りなくゼロに近いさ」
 という思いであった。
 絶対にゼロだとは言わない。ひょっとすると気付いていないだけで、毎日少しずつ成長している人は結構いるかも知れない。だが、それを強要するのは、無理があるというものだ。
 だから、松本先生はそんな教科書にでも乗っているようなセリフを感嘆に口にする人間を信用していない。むしろウソっぽいことを笑いながら言える人の方に信憑性を感じ、その人が何を考えているのかを探る方が、よほど人生について考えていることのように思えるのだ。
 教科書のようなことを簡単に口にできるやつというのは、年寄りであろう。
 自分がそうしてきたから、人にも教えることで、自己満足を得ようとしているのかも知れないし、自分が生きてきたあかしをその人に証明してもらおうという気持ちもあるのかも知れない。
 だが、そんな気持ちだけを持っていても、先に進めるわけもない。松本先生は、
「口でなら何とでもいえる」
 と思っていたのだ。
 その思いがあることから、動物小屋を作っている時もあまりまわりにそのことを言わなかった。
 だが、一人だけには相談していた。それが喫茶「ダンケルク」のマスターだった。
 マスターも、どこか先生と似たところがあった。無口であまり人に話しかけるところのないマスターだったが、なぜか先生とは気が合った。
 常連の中で、店が終わっても、片づけをしながら、よく店で酒を酌み交わしたものであり、
「喫茶店があっという間にバーになっちまうな」
 と、どちらからともなくいうことで、笑いを誘っていた。
作品名:断捨離の果て 作家名:森本晃次