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断捨離の果て

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 そうなると、ペットに人にあげてしまったり、餌を与えなかったり、さらには、簡単に捨ててしまうという輩もいるようになってきた。
 そのことが社会問題となったのは当然のことだが、人間という動物がいかに自分のことしか考えていないかということの表れである。
 そもそも、人間が自分という括りをどこまで感じているか。人によって違うとは思うが、その違いがどの範囲までかということで、その人の性格も垣間見えてくるのではないだろうか。
 まず基本的には、
「自分は自分。いくら家族であっても、自分という括りには入らない」
 という人もいれば、
「家族のような血の繋がりまでは自分という範疇に入る」
 と思っている人もいるだろう。
「自分に関わる人すべて」
 という考えもあれば、さらに広く、
「人間皆家族兄弟というような宗教的な発想を持っている人もいるかも知れない」
 と考えると、本当に人それぞれだ。
 どれが正しくて、どれが間違っているというわけではないが、基本的には、家族や血の繋がりを考える人が多いだろう。この感覚は、何か大変なことが起こった時、誰を優先するかという感覚から、自分という括りを考えるに違いない。例えば、何か事故が起こって、乗っていた乗り物が壊れてしまったりした時、負傷したりしている人を助ける場合、誰を優先するかと言われれば、百人が百人、肉親を優先するに違いない。
 自衛隊や医者などのような公共の救命員には、その選択権はないが、心情的には家族を助けたいというジレンマに苦しむことになる。
 だが、もし、そんな優先順位を意識することがなければ、どうだろう? 緊急事態に陥った時に、苦しむっことがないように、気持ちをリセットできたとすれば、少なくとも苦しまずに済むのではないか。余計な人情を持つために、助かる人が助からなかったり、そのくせ自分が苦しむという本末転倒なことになりかねないのだ。
 人というのは、生まれてくるのも一人、死んでいく時も一人である。確かに生まれてくる時は母親から生まれてくる。両親がいて自分がいるのは間違いのないことなのだ。それを否定はしないが、
「自分」
 という括りになれば、あくまでも自分一人なのではないだろうか。
 成長していって、自分の判断で行動できるようになると、親の言っていることに対して疑問を感じたり、何かの違いに気づいたりする。その時、親はいつまでも子供を自分の持ちモノのように思っていると、子供が逆らうことを信じられないという思いに打ちひしがられてしまう。それを、
「反抗期」
 というのだろうが、それはあくまでも親から子供を見た時の言葉であり、本当は反抗期などではなく、
「社会適合気」
 と言ってもいいのではないだろうか。
 子供が親の元を離れて。自分で独立できるようになるための準備段階。そういう意味で、この時期のことを、
「成長期」
 ともいうのだ。
 成長期と言うと、どうしても肉体的な意味で、子供が大人になる時という謂賞が強いが、本当は精神的なものが大きいのかも知れない。
 そういう意味で、
「反抗期」
 のことを、
「精神的な成長期」
 と言ってもいいのではないだろうか。
 ただ、反抗期に見えてしまうのは、まわりの影響を一番受ける時でもあるからだ。何にでも興味を示し、自分が成長しているということを自覚してはいるが、その反面、
「まだまだ子供だ」
 と思っている。
 これは、子供としての謙虚な気持ちからではなく、子供から大人になるのを怖がっているという証拠でもあるのだ。それを大人は分かっているはずなのに、自分の子供であったりすると、それを認めたくないという思いが親の中にあり、これを、
「子離れできない親」
 として、世間は認識することだろう。
 だがこのような関係は大なり小なり、誰もが通る道なのだ。
 親離れも子離れも、子供と大人の境目に子供がいることで、親は半分は見えているが、半分は見えていない。そんな中途半端な場所であっちに行ったりこっちにいったりしている子供を、コントロールできないでいるのだった。
 そんな時期が子供にとっても、親にとっても、一番大切な時期なのかも知れない。動物はそれを本能で乗り切れるが、人間には感情があるために、なかなか乗り切ることができない。それだけ弱い動物でもある。
 だからこそ、人間には、武器として知性や理性が備わっているのだ。
 それを人間は驕りのように感じてしまうことで、他の動物に対して、自分の優位性を保とうとする。
「ひょっとすると、その気持ちが、動物を飼うことで自分が癒されると思っているのではないだろうか?」
 と感じさせた。
 そもそも買うというのは、自分が優位に立ちたいという思いから、
「支配する」
 という意識を持つことなのかも知れない。
 自分が表に出られないことで、まるで檻の中に閉じ込められているという意識が働き、そして、その檻の息苦しさを、
「癒しを求める」
 という言葉に変えて、ペットを飼おうと思う。
 それは、檻の閉じ込められている自分が、さらに檻に閉じ込められているものを見て優越感に浸るという意識も少しはあるのではないか。実際にハツカネズミなのどように、本当に閉じ込められているのを見てしまうと、さらに鬱を深めてしまいかねないのを、無意識に分かっているのだ。
 いわゆる、
「マトリョーシカ現象」
 のようなものではないか。
 人形の中を開けると、人形が出てきて、それを開けるとまた人形が入っているという。ロシアに伝わる民芸品の人形のようにである。
 だから、
「共に生きる」
 という意味で愛玩動物を飼うことにするのだが、それも、緊急事態が収まると、すぐに用なしになってしまうのは、人間のエゴからであろうか。
 エゴという言葉は何にでも当てはまる言葉で抽象的ではあるが、実に都合のいい言葉だ。特にあまりいい意味ではないだけに、そう感じるのであろう。
「ペットというのは、飼い主を選べない。だから、ペットが幸せになれるかどうかは。運命に委ねるしかないんだ」
 と言っている人がいるが、それは人間でも同じである。
 人間であっても、動物であっても、平等であるべきだという発想はあっても、実際には生まれながらに不平等にできているのだ。そんなことは誰もが分かっていることであるが、決して口にする人はいない。
「どうして口にしてはいけないのか?」
 誰が答えを知っているというのだろうか?
 そんなペットが捨てられていく中で、松本先生は、
「少しでもペットを救おう」
 ということで、自分の病院の裏手にある空いていると地位、大きなプレハブの小屋を作り、そこに一時ではあるが、ペットを収容できればいいと考えていた。そのまま放っておけば、保健所が事務的に、
「動物狩り」
 を行い、殺処分にされるだけなのは分かり切っていることであり、そうなってしまうのを誰も助けることはできないだろう。
 動物愛護団体だって、しょせん何もできない。
「すべてを救えなければ、一匹だけ救っても同じなのだ」
 と考えているのかも知れないと思うと、松本先生が憤りを感じ得なかったのだが、
「少しでも助けられればいい」
 と思えば、気が楽になるのだった。
作品名:断捨離の果て 作家名:森本晃次