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断捨離の果て

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 と皆が思っているが、この生活自体は慣れてくると、さほどきついものではない。
 街の明かりもすっかり夜の街からは消え、一部の不心得者が、用心もせずに我が顔で振る舞っているのだった。
 一般市民としては、そんなところに近寄りたくもない。ストレス解消を目的に、飲み会たカラオケに行っていたのだろうが、それも、ストレスを爆発させるのが、
「会社をクビになりたくない」
 であったり、
「世間に逆らって、バッシングを受けたくない」
 という理由であれば、今のこの時代にカラオケや飲み会を催すことは、それだけで犯罪レベルなのだ。
 警察に捕まらなくても、世間からは、白い目で見られ。ネットでは匿名希望で名前が出ないのをいいことに、誹謗中傷のあらしとなり、世の中すべてを敵に回しかねない状況になってしまう。そうなってしまうと、本当に本末転倒ではないだろうか。
 しかも、自粛をしなかったことで、伝染病に罹ってしまえば、目も当てられない。会社をクビになることはないが、どこで移されたのかが分からない。
「感染経路不明者」
 ということになれば、世間では、
「人に言えないような店に立ち寄ったのではないか?」
 という誹謗中傷を浴びてしまう。
 そうなると、問題は自分だけではなくなってしまう。避難の目は家族や会社の同僚にも及ぶ、自分と話をしていない人でも、近くにいるというだけで、何を言われるか分かったものではない。
 もちろん、誹謗中傷をすることが悪いに決まっているが、そうとばかりも言えない。
 要するに、
「自分の身は、自分で守るしかない」
 ということになるのではないだろうか。
 今の世の中誹謗中傷は犯罪よりもたちが悪い。そのくせ犯罪にならないことが多いのだから、実に理不尽で矛盾していると言えるのではないだろうか。
 世の中がすべてそうなのかどうか分からないが、一つ言えることは、
「世の中は矛盾でなるたっている」
 ということではないだろうか。
 公園の中を歩いていると、ネコが花壇のあたりに数匹いるのが分かった。
 なぜ分かったのかというと、岸本がそこを通りかかった時、まるでクモの子を散らすように四匹くらいが、四方に走り去ったのを見たからだ。皆なぜか同じ方向に逃げようとせず、四方に散らばったのか、それが最初は分からなかった。もし、以前同じようなシチュエーションで猫を見た時、ネコたちは、自分からなるべく遠ざかるかのように、自分たちがぶつかるかも知れないのを承知の上で逃げ出していた。今から思えば、同じ猫であれば、本能のようなものがあることで、決してぶつからないということを分かっていたのではないかと思えた。
 それなのに、その日は、そんな自分たちすら信じられないかのように、逃げ出した。人間が恐ろしいというよりも、もっと何か、ネコたちにとって、何をしていいのか分からないというような意識に苛まれたのではないかと思うのだった。
「ミャー」
 と、そのうちの一匹、一番自分から真正面に向かって逃げていた猫が急に振り返る、こちらに向かって鳴いて見せた。
――何の意味があるというのだろう?
 と考え、自分が進む道を猫が示唆しているかのように思えて、何かおかしな気分になっていた。
 途中まで猫の足跡を辿るかのように歩いていたが、ネコが途中から方向を変えた。しかも、その方向というのは、道がある方向ではなく、花壇の向こうに向かって歩いていた。
 花壇の前にある大きな木のところに気持ちばかりの柵があり、そこを下を潜るようにネコ派、文字通り猫背になりながら、滑り込んでいった。
 そして、向こうに抜けた後、ネコ派こちらを振り返り、また
「ミャー」
 と鳴くのだった。
 まるで自分を誘っているかのような素振りに、ネコが一人の女の子のように思えた。猫のしなやかな動きとその甘えるような素振りに、以前から女の雰囲気を感じていた岸本は、ネコが好きだった。
 相手が女という雰囲気ではない限り、決して自分が好きになることはないと思っているだけに、最初はネコを好きになった自分が信じられなかった。
 それは中学時代に襲ってきた思春期を思い起こさせ、前の日まではまったく意識していなかった女性に対し、、たった一日で意識してしまうと忘れられなくなった自分が不思議で仕方がなかった。
「怖い」
 と感じたほどだったのだ。
 元々イヌは好きだったがネコは意識したことがなかった。むしろ、イヌが好きなだけに、ネコは嫌っていたと言ってもいいかも知れない。
「イヌは人間につくんだが、ネコは家につくんだ」
 という話を訊いたことがある。
「どういうことだい?」
 と聞くと、
「イヌは人間につくので、もし、飼い主が自分を捨てて引っ越していったら、イヌは決してその家に寄りつくことはない。飼い主がいないからだ。しかし、ネコは家につくので、飼い主というか、餌をくれる人が誰であっても、その家にいつも現れるんだ」
 と言っていた。
 少し話は大げさではあるが、信憑性はあった。その話を訊いていると、ついつい自分というものが、
「ネコ派なのか、イヌ派なのかというとこを考えさせられてしまう」
 と思うようになってくる。
 自分がイヌが好きだからと言って。イヌ派だというわけではないだろう。逆に違っているから、違う相手に惹かれるということもある。必ずしも似た性格の相手を自分が欲するというわけではなく、互いに足りていない部分を補おうとする気持ちは、それこそ、人間の、いや、動物すべてにおける
「まぐわい」
 と同じことを示しているのではないだろうか。
 そんなことを考えていると、目の前にいるネコが自分に何かを訴えているかのように思えてきた。
――何を訴えているのだろう?
 と、岸本は考えた。
 その気になる一匹がどうしても放っておけなくて、岸本は花壇に足を府に踏み入れた。花壇と言っても、冬なので花が咲いているわけでもなく、ただ、芝生のあたりが柔らかそうに見える程度だったが、真っ暗なので、実際には分からない。
 ゆっくりと猫の後を追いかけて進んで行くと、そこに何かが転がっているのが見えた。
 花壇の手前に、垣根の役割をする小さな気が植えてある。まるで大きな盆栽でもあるかのようなその木は、花壇を覆い隠すかのように綺麗に楕円形に切り取られていて、その向こうは明るくても見えないようになっていた。
 岸本はネコを追いかけて、その盆栽のような垣根の手前に来ると、一瞬たじろいだ。その転がって見えるものが何なのか、恐ろしかったからだ。
 岸本という男は、まわりからは怖がりではないと思われているようだったが、実際には怖がりだ。どうしてまわりにその意識がないのかというと、なるべく危うきに近寄ることをうまく相手に意識させないように避けていたからだ。
 それくらいのテクニックがあることで、人から怖がりと思われないのをいいことに、最初から恐怖スポットは怖い話をする連中に近づかずにすんでいた。
作品名:断捨離の果て 作家名:森本晃次