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断捨離の果て

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 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。ぼかしてはいますが、社会情勢は、令和二年十一月現在だとお考え下さい。昭和から平成に移った時代背景は、ほぼ感覚によるもので、これは事実に違いありません。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。ご了承願います。

              刺殺事件

 季節の変わり目でもないのに、まるで夏から冬に突入したかのような異常気象と思しきここ数日は、嵐のような風が吹く荒れた時期を通り越し、すっかり冬の気配が漂っていた。今年は冬が寒いというが、夏も暑かったような気がする。ついこの間夏が終わったと思っているのに、すでに終わってしまうと、かなり古い記憶として時系列が混乱するほどになっていることだろう。
 今年の夏は、梅雨が遅かった影響か、いきなり暑くなった。最高気温が三十五度以上という猛暑日が数日続いたような気がしたが、過ぎてしまうと、そんな日々があったという意識があるだけで、それが今年なのか、去年だったのかすら意識がないくらいなのだが、記憶というものが過去になるにしたがって、時系列が曖昧になってしまい、昔に対して、抽象的な記憶としてしか残っていないのではないかと思うようになってきた。
 岸本総一郎は、そんなことを考えながら、その日は帰りが少し遅くなってしまったこともあり、普段であれば、駅前の商店街を通り抜けるのであるが、この日は近道をしようということで、線路沿いの公園を通り抜けて帰ろうと思い、普段通らない道であることは重々承知の上で、前を歩いている人の背中を見ていると、
「このままのペースで歩いていると、追いついてしまうよな」
 と思いながら、ペースを下げるのだが、気が付けば男の背中がすぐ目の前に迫っているような気がして、一旦立ち止まってみたりする。
 すると、急に後ろが気になってしまい、
「誰かに追いかけられているような気がする」
 と思い、立ち止まるのも怖い気がした。
 今度は、追い抜いてみようと瞬間考えたが、それこそ本末転倒。自分が先頭になるということが一番怖いのだった。追われる立場がどれほど怖いものなのかいまさらながらに感じていた。
 最初は、
――どうして追われるのが怖いのだろう?
 と考えていたが、影に原因があるような気がしてきた。
 歩いていて、前の人間を意識する時、夜の場合は人間というよりも、影の方を意識しているような気がする。
 だから、自分が一番前になってしまうと、後ろの人は自分のことを影でしか意識していないだろう。しかも夜のとばりが降りてしまうと、影は街灯によるものとなってしまうので、歩いているうちに、足元からパラソルの骨のように、濃淡バラバラの複数の影を放射状に映し出し、さらにクルクルとまるで遊園地にあるコーヒーカップのように足元から円を描いている。
 その意識があるため、影をいったん意識してしまうと、影を無視できなくなってしまう。それは自分の意識というよりも、影が見られているという意識も同じことで、自分が前に見つめる影がないということに、何とも言えない恐怖を感じるのだった。
 影を意識している人が果たしてどれほどいるだろうか? 自分で意識するまでは、意識するようになってから考えると、思ったよりも多いのではないかと思うのだが、逆に意識している自分を感じていると、案外と少ないのではないかと逆の発想井至るのはなぜだろうか?
 だから今は、影を意識している人はほとんどおらず、意識しているのは自分が知っている人間の中では自分だけではないかと思う。
 ただそう思うと、自分の知らない人は結構影を意識しているのではないかと思うのだが、そこに自分が無意識に人を分類して意識しているのではないかと考えるのだった。
 真っ暗な中を歩いていると、どうしても気になるのは光であり、ガラスの破片や硬貨のようなものが、真っ暗な中には必ず落ちていて、自分は一度はその光を必ず見るはずなのだが、気が付いていないだけの時が多いのではないかと思えた。それだけ無意識の中に石井があり、その無意識が潜在意識として残ってしまうことで、暗い道を通った時など、その日は夢を見るだろうということを意識しているのではないかと思うのだった。
 夜というのは、光を求めるもので、求めた光は夢に繋がる、真っ暗で見えない感覚は、夢というものが、目が覚めるにしたがって忘れていくものだという意識を証明しているかのように思えた。
 人の影を、いや、人を気にして歩いていると、自分がどれだけ進んだのか分からなくなる。かなり進んでいるつもりでも、実際にはちょっとしか進んでいなかったり、ちょっとしか進んでいないように見えて、かなり進んでいることを自覚できる時、それぞれある。
 前者は、
「百里を行く者は九十を半ばとす」
 という言葉が示す通り、かなり進んでいるように見えて、実際には進んでいないという言葉のたとえである。
 逆に後者は、前ばかり見ている時、ふいに後ろを振り向くと、まだまだ目的地が見えてもいないのに、かなり進んでいることが分かる。どちらの場合も、実際に進んでいる距離が、自分が感じている全体のパーセンテージからすれば小さいことを示している。実際に進んだ距離に差異がないのであれば、全体像を見誤っているということになる。前ばかり見ていた人が後ろを見て、
「こんなに来たのか?」
 と感じるより、その後に前を向いて、まったく最初と意識が変わらず、ゴールがまったく見えないことを思い起こさせられると、そのショックはさらに大きいものだ。
 自分がどこまで進んだのか分からなくなるのも無理のないことであろう。
 その日は、思ったよりも明るかったような気がする。そんなに何度もこの公園を通り抜けることはないが、最後にここを通り抜けたのはいつだっただろう? 思い返してみると、汗が滲んでいたという意識があることから、まだ夏だったか、あるいは、夏が忍び寄っている間の梅雨の時期だったかも知れない。
 風の冷たさは、岸本にとってそれほど辛いものではなかった。暖かかった時期から急に寒くなった時は、身体が反応できず、ものすごく寒く感じたが、一度寒さに慣れたかと思うと、また数日夏のような暑さがぶり返してきて、また寒さが戻ってきても、つい最近まで寒さに慣れたという意識があるから、急な寒さや暑さには身体が反応できるのであった。
 ゆっくりと前を向いて歩くという方法が、寒さを一番緩和できる方法のようだ。なるべく背中を曲げて、いかにも寒いという感覚を身体に覚え込ませていると、寒さを覚えている身体は勝手に反応し、さらにその形を自分の中で固めていく。
 時間としては、そろそろ十時近くになっていた。さすがに通勤で帰る人が多い時間は、九時前くらいまでであろう。
 今の時代は、宴会や集団での行動は自粛体制であったり、会社から禁止されている。
「嫌な時代になったものだ」
作品名:断捨離の果て 作家名:森本晃次