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短編集113(過去作品)

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 だが、乗る電車によっては、反対ホームに同じ時間に到着する電車があり、それには学生がたくさん乗っている。しかも同じ時間といっても、向こうは一、二分早く到着している。木下が早く降りれば降りるほど、学生連中の中に入り込んでしまうという寸法であった。
 それを避けるには、彼らと違う方向に行くことだ。学生連中は部活が終わって帰る連中で、静かな連中だとは到底思えない。なるべく関わりたくはない連中である。最初の角を曲がる最初の目的は気分転換だったが、それが次第にいい方に変わっていったのだ。
 最初の角を曲がると、昔からある住宅街を通り抜けることになる。この道は小学生の頃によく通った道だった。
 大学時代は、一人暮らしをしていて、就職してから少しの間も一人暮らしをしていて、やっと数年前より実家から通えるところに転勤になったことで、懐かしい道を歩いてみたいと感じたのが最初だったのだ。
 この道以外にも歩いてみた。
 小学校の前を通って帰ったこともあったが、さすがに小学校の前を通るとかなりの遠回りになる。結局、今の通勤路に落ち着いた。
 住宅街を抜けると、また大通りに出るのだが、そこは駅から来る人が歩くことはない道である。
 数年前にできたバイパスで、木下が以前住んでいた時には当然なかったものだ。まだ店も完全にはできていない。それでも交通量だけは多く、人が歩いている姿をあまり見かけることはないはずだ。
「木下さん」
 大通りに抜けると後ろから声を掛けてくる女性がいた。
「文江」
 そう、彼女は以前に付き合っていた文江だった。
「どうして君がここにいるんだ?」
 明らかに木下を訪ねてきたとしか思えないが、なぜここにいるのだろう?
「あなたが現れそうな気がしたのかも知れないわね。私、一年前にこっちに引っ越したの。そして、あなたと会えそうな思いを抱いたまま、今までこの街で生活していたのよ」
 彼女とは別れたわけではなく、自然消滅だった。
「私、少しお金に困っているの。何とかならないかしら」
 付き合っているといっても、お金の工面をしてあげられるほどの親しい仲ではなかった。それだけに期待されても困る。どうしていいか困っているうちに、彼女もさすがに気まずさが分かったのか、木下の前から離れていった。
「あの時はすまなかった」
 まず謝らないといけないと感じていた。あのままずっと会えなくなってしまうとは思っておらず、
――そのうちに絶対に会えるさ――
 という思いを抱いたまま、数年が過ぎた。思いを抱いてはいたが、その度合いは次第に薄れていって、期待は願望に変わり、希望へと変わっていった。そのうちに意識だけになっていたことだろう。
 だが、実際に出会って、びっくりはしたが、これも必然的なことだった。顔を見た瞬間久しぶりだと思ったが、次の瞬間には以前会ったのがまるで昨日のことのように思えてならなかった。
「君は変わっていないね」
「そうかしら? あなたもよ」
 この言葉は完全な社交辞令だった。彼女もそのことが分かったのか、返してきた言葉に暖かさは感じられない。
 文江は変わっていないわけではない。明らかに以前の知っている文江ではなくなっている。
 しいて言えば、自然消滅する寸前の彼女がそのまま年を取っただけという雰囲気もあるが、それ以上に苦労の痕が見える。やつれているというべきだろうか。
 木下はその間どうだったのだろう?
 感情をあまり表に出すことがなくなってしまって、さぞや冷静な顔になっているかも知れない。
 いい意味で言えば、
「大人になった」
 と言えるだろうが、悪い意味で言えば、
「感受性のかけらもない表情だ」
 と言えなくもない。しかも、木下自身は両方とも自覚していて、どちらかというと悪い意味での感覚の方が強く持っていた。
 だからこそ、電車の中での感情が過敏になってみたり、自分の中で感情を押し殺すようになってしまったのだろう。学生時代はまったく逆で、感情を押し殺すくらいなら、表に出すくらいの気概があった。だが、それも学生という時期の甘さだったのだと今では思っている。それは新入社員時代の新人研修を思い出すからだった。
「郷に入れば郷に従え」
 その言葉が頭から離れないでいた。それだけ自分もすでに社会人としての歯車であることを曲がりなりにも自覚している証拠だった。
 大通りには、まだまだ店が少なかったが、それでも喫茶店のような店はあった。お互いに募る話もあるだろうと思い、文江を喫茶店に誘うと、二つ返事で、
「ええ、行きましょう」
 と返ってきた。その表情には、学生時代に感じたことのないドキッとした魅力があった。やはり以前の文江ではない。大人の魅力を感じさせた。だが、
「私ね。一年前まで入院していたの」
 なるほど、何となくやつれた雰囲気は、入院生活を思い起こさせた。まんざら以前の文江を忘れているわけではなかった。
「入院したのも精神的な面と体調面と両方だったんだけど、きっと精神的には鬱病だったのよね。何を考えていたのかって、今からじゃあ思い出せないくらいだわ」
「苦労したんだろうね」
 指先がカサカサになっていた。柄にもなく昔の知り合いの女性に出会って緊張しているのだろう。嬉しいという気持ちよりも、気まずい雰囲気が強いはずなのに、なるべく早くその気まずい雰囲気を取り除きたいという気持ちが強まっているのも事実だった。
「ううん、苦労なんてきっとしてないわ。苦労をしたくないという思いから、自分を見失っていたのね。だから入院なんてしたんだわ」
 少し俯き加減で、木下の顔を見ようとしなかったが、意を決したのか、上目遣いで見つめられると、さらにドキッとしてしまった。
「私ね、実はある男性と愛人契約を結んでいたの」
 耳を疑うとはまさしくこのこと、愛人契約という言葉は聞いたことがあるが、まさか自分が知っている人、しかも一度は真剣に付き合おうと思った人の口から出てくる言葉であろうはずはなかった。
「どういうことだい?」
「母親が病弱で入退院を繰り返していたの。入院費も嵩むし。それでも仕方なしにネットで調べたら、そんな話があって……」
 まさか自分から望んでということではないと思っていただけに少し安心した。彼女に限ってそんなことがあろうはずもないからだ。
「でも、相手の人も最初はキチンとお金をくれていたんだけど、そのうちにくれる量も減ってきてね。こちらも合法的なお金を貰っているわけじゃないから、執拗にも言えなくて……」
 当たり前である。公序良俗に完全に違反している契約なのだ。
「そのうちに私も慣れてきたの。相手の考えていることも分かってきて。自分が何も感じなくなれば、それで何とか耐えていけるものなんだってね」
 何とも歯切れの悪い話であろうか。自分を殺すことで、生きているなんて考えただけで恐ろしい。しかし、ゆっくり考えると、あくまでも他人事で考えているから思えることであって、本人にとっては、それほどのことではないのかも知れない。もちろん、自分を押し殺すことのできる人であることが前提であるが。
「でも、そのうちに身体を壊しちゃった。思ったよりも精神的にきつかったのかもね」
 そう言って苦笑いをしている。
作品名:短編集113(過去作品) 作家名:森本晃次