短編集113(過去作品)
「そうなんだけど、それでも私の居場所は本当にそこなのかって疑問にもなったわね。都会にいた時の人生がまるで薄っぺらな紙のように感じたものだわ」
「だからこそ、田舎での生活はもっと感情が薄れてくるものだったんじゃないかい?」
「ええ、よくお分かりになりますね。いつも下を向きながら歩いていて、足から伸びる影ばかりを見つめていたわ。すると面白いもので、影が薄かったり濃かったりするのが分かるものなのよ。どこか精神状態の変化に比例したところがあるみたい」
「それで彼のことも、薄っぺらく感じたの?」
「ええ、それに彼には大学に彼女もできたみたい。次第にぎこちなくなってきたのが分かったの。彼にとって、すでに私は過去の女になっていたのね」
平山はマジマジと尚子を見つめた。思わずキスしたい衝動に駆られ、そのまま衝動が行動に変わった。
湿気を帯びた空間に、平山の神経は唇に集中する。
尚子の舌が絡んでくる。唇がさらに強く吸われて、彼女の積極性を見ていると、最初からこうなることを予期していたとも思える。何よりも彼女の唇の感覚は、初めて味わうものではないように感じられ、懐かしさに時間も忘れていた。
あまりの激しさの中、苦しさから唇を離すと、
「はぁあ」
尚子の吐息を耳元で感じた。
その瞬間、平山の気持ちは大人の男へと変わった。
「いいのかい?」
マジマジと見つめた尚子の瞳、初めて目と目で会話した瞬間だった。
尚子は黙って頷く。それも分かっていた。
さっきまであれだけ熱いと思っていた太もも、そして浴衣がはだけた胸に手を当ててみると、どちらも冷たさすら感じるほどだった。
――俺の身体が火照っているのかな――
間違いではないだろうが、尚子の身体から熱が引いていったのも事実に思える。吐息が漏れる中、初めて味わう女性の身体を堪能していた。
頭の中は驚くほど冷静だった。確かに成人雑誌を読んで、女性の扱い方は勉強しているつもりだったが、ここまで無言のままスムーズに進むとは思わなかった。
――俺が初めてとは、彼女は思っていないに違いない――
と思うほど静かに時は過ぎていく。
次第に高ぶりを感じてくると、
「実は私、初めてじゃないの」
と告白してくれる。前の彼に抱かれたことがないわけもないのだが、彼女の口から聞くまではそんな心境になれなかった。
「私がしてあげる」
平山を見つめる目が妖艶に光った。大人の女に変貌した瞬間を垣間見たのだが、それまでにしていた会話の内容が映像となって頭の中を巡ってくる。すると、それまで理解できなかったことが次第に明らかになってくるようで、尚子の話はすべてこの瞬間のための序曲にすぎなかったのではないかとさえ思えてくる。
「おおっ」
身体が勝手に反応するのは、どこかに未練があるからではないだろうか。平山にとって、その瞬間がすべてだったように思えるほど、大袈裟な気持ちが頭を巡っている。
しかし、平山にとって、その気持ちはまんざら大袈裟でもなかった。女性を知らなかったことが今の平山にとって、一番大きな問題だったからである。
静かで湿気を含んだ、妖艶な匂いが漂う時間は、正確に時を刻み続ける。部屋のどこかに時計があるのか、時を刻む音だけが頭の奥に響いている。
――俺だけになんだろうか――
平山は感じていた。きっと自分だけなのだと。完全に主導権を握ってしまった尚子の妖艶な表情は、どこか勝ち誇ったようなものが見え、少し癪なところである。だが、それも時間の問題であった。
女性にすべてを任せるのは男性としては少し情けない気がするが、その時はただ従うことが礼儀だった。何もかも初めての時間が過ぎていく。それが長いか短いか、それは後になって分かることだと感じながら……。
しかし、次第に荒くなってくる尚子の吐息を聞いた時、平山の中で何かが弾けた。初めてだという意識はどこかに飛んでしまい、気がつけば責めていた。
尚子の反応は想像通りのもので、
――本当に初めてなのだろうか――
という意識だけが、その場の理性を保っていた。初めての時は、きっと何も考えられなくなるだろうと思っていたのに、身体全体で感じるだけで一杯の頭が疑問だけは受け付けた。
意識が遠くなってくる。そして、記憶まで遠くなってくるのを感じていた。
平山は、自分が社会人であることを思い出していた。その中で大学時代のイメージだけを持ったまま、尚子を抱いている。押し寄せる快感の中で、体液の放出を必死に我慢している。そのうちに我慢までもが快感に変わってくるのは、意識だけが身体を支配しているからだと気付く。
旅行に出かけたその先で、思い出したのは尚子のこと。尚子とはそれからすぐに別れることになったが、その経緯すら我慢している快感を興奮に導いている。
別れはあっという間だった。彼女が最初平山に会いに来たのは、嫌なことを忘れるため。もちろん、平山も分かっていた。だが、二人きりの時間は、尚子の正真正銘の素直な気持ちだと思ったことに違いはない。
平山にとって、記憶がどこまで今の現実まで戻れるか大切なことだった。
そのためには尚子との別れを思い出す必要もある。
今度は平山が尚子の住んでいる街を訪れた。懐かしさを感じる佇まいのある街だった。またしても初めてなのに、初めてでない気分。
――後から思い出すからなのかも知れない――
いつもその思いはあった。
平山は、尚子に会いに行って、ほとんど何も話すことができなかった。何かを話してほしいと思って期待されていることは重々承知なのに、何も言葉が出てこない。
見つめられると、抱きしめていた。尚子も黙って抱きついてくる。唇を重ねるが、それ以上を求めることをしない。
――何を求めているのだろう――
明らかに、最初の夜とは雰囲気が違う。お互いに遠慮しあっていて、先に進まない。その場の雰囲気が重くなる。お互いに唇を重ねることで何かを求めるがそこから先は何もない。
――男が何かを話してあげないといけない――
そう思ったのは間違いないが、言葉が出てこない自分がじれったかった。
それからの人生は、言葉に詰まることだけはしないように心がけた。そのせいか、話していいことと話してはいけないことの狭間で苦しむようになってしまった。
社会人になってから、自分を表に出すことをまず心がけた。だが、それは自分を立場的に追い詰めていくことになるのを分からない。
誰かに頼りたくなってくるが、自分を表に出すことでそれも不可能だ。まわりからは自信過剰に見えるだろう。
自信過剰であることに違いはない。自信を持つことが平山の性格でもあるからだ。
だが、それが災いすることもある。人から妬まれる性格であることに気付く。一人になりたくて出かける旅、その時に思い出すのが初めて尚子と出会った時である。
――感情って、繰り返す「歴史」のようなものなんだ――
漠然と感じる。
あの時、尚子に感じた思い、そしてすべてが初めてでないと感じる思いは、今から思い出すからだ。今の自分がその時の尚子と同じになっている。今だから分かることも多い。だからこそ、思い出すのは尚子のことだけだった。
作品名:短編集113(過去作品) 作家名:森本晃次