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短編集113(過去作品)

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――こんな風呂に今になって入るなんて――
 まるで子供の頃に戻ったかのような錯覚だった。
――今後、こんな風呂に入ることは二度とないだろうな――
 という思いが頭を巡った時、何かが見えたような気がした。
 それは将来、もう一度同じような風呂に入る意識だった。風呂に入るだけではない。旅館の表からの景色、そして、部屋の雰囲気や空気、匂いに至るまで、懐かしい雰囲気は、初めてでないように感じられた。
 以前にこんな旅館に泊まったことなどなかったはずなのに、知っている雰囲気を感じたのが最初だった。そして次の瞬間に、
――もう一度同じような風呂に入る気がする――
 という意識だった。
 ここまでくれば、近い将来にもう一度同じ宿を感じるかも知れないという意識が芽生えてくる。こんな感覚は初めてだった。
 狭い風呂なのに、音の反響はまるで銭湯に行った時のように響き渡っている。銭湯や温泉には何度も行ったので、その時の感覚なのかと思ったが、そうではない。どう考えても寂しさを感じさせる宿の雰囲気が、将来を感じさせるのだ。
――だが、この寂しさは一体なんなんだろう――
 寂れている雰囲気に感じる寂しさではない。自分の中の感情に対する寂しさである。この感覚は今までにもあったはずだ。それが子供の頃だったのか、最近になってからのことなのか、自分でも分からない。
 部屋に戻れば布団が二つ敷いてある。宿の人は若い二人をどのように見たのだろう?
 何の経験もない青二才である平山に見当などつくはずもない。
――きっと、兄弟くらいに感じたのだろう――
 当たらずも遠からじであろう。あどけなさの残る尚子に、おどおどしていないまでも、相手の顔をまともに見れない平山は、どう見ても恋愛経験が豊富には感じられない。
 二つ敷かれている布団を見て、和室に馴染んでいるのに、どこか浮いて見えるのは、何かを期待しているからに違いない。だが、平山の頭はそこまで回っていない。淫靡な雰囲気は感じるが、相手も経験のない女性で、自分もまったく未経験だ。女性の身体を見たのは、大人の雑誌でしかなかった。
 どうしても、雑誌だとリアルさに欠ける。それなりに欲情はしても、写真や漫画よりも、体験談などのような小説の方が興奮を感じる。
 想像力は豊富な方だろう。絵や写真よりも小説などの文章の方が想像力を掻きたてられるのは、大人の世界だけのことではない。
 まだ寝るまでに時間があったので、テレビを見ていた。見ている間、お互いに無言だったのは、雰囲気が高ぶってきたからではない。ただテレビに集中していたからだろう。音があるだけでもそれだけ違うのだ。それでも普段自分の部屋でテレビを見ている感覚とはかなり違っていた。
 部屋が狭く感じられる。ブラウン管に集中している時、自分の部屋であっても、そんな気分になることはあった。ということは、それだけブラウン管に集中しようと思っているからで、それが無意識でないことは分かっている。きっと、その場の雰囲気を直接感じることを避けようという作用が働いているのだろう。
 時間が経つのも早かったように思う。
「そろそろ眠たくなってきたわ」
 二人きりで女性と一緒にいることなど今までにあまりなかった平山は、彼女の言葉で、自分にも睡魔が来ていることに初めて気付いた。
 それまで気付かなかったのは気が張っていたからであって、気付いたことで自分の睡魔がいかほどのものかを自覚すると、どうしようもない疲れが襲ってくる。
「そうだね」
 テレビを消すと、急に部屋が暗くなった。テレビを見ている時でも狭く感じていた部屋が、さらに狭く感じられる。
 さらに電気を消し、豆電球にすると、見える範囲は完全に限られる。その時になって、初めて部屋を広いと感じたのだ。
 横になっていると部屋を広く感じるのは、布団の影響かも知れない。一人の時よりも二人だと狭く感じるはずなのだろうが、そんなことはなかった。
――もし相手が男だったら狭く感じたかも知れない――
 と思ったのは、少し平山に被害妄想があったからだろう。
 小さい頃いじめられっこだった平山は、その当時の印象が身体に染み付いているのか、どんなに気心の知れた相手であっても、男性と二人きりになれば、恐怖を感じるところがあった。次第に治ってきてはいたのだが……。
 じっと豆電球を見つめていると、今度は目が冴えてくる。隣に女性がいることで緊張もあるのだろうが、普段から真っ暗にして寝ることが多かった平山に豆電球の明かりは中途半端だった。
 真っ暗にしてしまえば、息苦しさを感じると思ったからだ。尚子がどのように感じるか分からないと思っていたが、耳を済ませていると、次第に吐息を感じることができた。それは寝息ではない。明らかに緊張から来るもののようだった。
「寝られないのかい?」
「ええ」
 声を掛けると、声が裏返っているかのようにかすれていた。ハスキーな彼女の声を初めて聞いて、
――大人の雰囲気だ――
 と感じた。
「こっちに来るかい?」
 抱き合っていると落ち着くのではないかという男側からの勝手な発想だったが、彼女はそれに逆らうこともなく、
「ええ」
 そう言って、平山の布団に忍び込んでくる。
 暖かさを感じた。浴衣が少しはだけて、太ももが絡み合うと、熱さを感じることができた。
 ほのかに酔いを感じるほどである。
 腰に手をやると、思わずそのまま抱きしめていた。足の間に自分の足が入り込み、抱き合っているのがこれほど精神的な隙間を埋めてくれるものだということを初めて感じることができた。
 彼女の顔が平山の首筋に当たっている。吐息が心地よいのは首筋が感じているからだ。女性の首筋は感じると聞いていたが、男性も感じるものだった。
 尚子は顔を上げようとしないのは、照れているからだろう。平山も抱きしめているだけで暖かい気持ちになれ、このままでもいいと思うのだったが、
「ねえ、あなたのことをもっと知りたいわ」
 胸元に顔を埋めたままの尚子が口を開いた。
 何から話していいか分からなかったが、とりあえずいじめられっこだったことから話してしまった。まずは、そこから知ってもらわないと、自分を理解してもらえるはずもないと感じたからで、敢えて話したのだ。
 尚子は黙って聞いていたが、時々頷いているのが感じられた。話を聞き終わると、
「私もいじめられっこだったの」
 ポツリポツリと話し始めた。
「私は大人になってから苛められるようになったの。初めてあなたと出会った頃はそんなことなかったんだけど、卒業して就職してからというもの、気がつけばいつも一人だったわ」
 次第に顔を上げて話し始める。
「でね、理由がまったく分からないの。一人でいることが多かったので、苛められる理由なんてないと思うのにね。思い返してみれば、学生時代もずっと一人だったの。友達と一緒にどこかに行くことはあっても、集団の中でいつも一人端の方にいるというだけの女の子だったのよ」
 そういう雰囲気の女の子は容易に想像がつく。自分も一人でいることの多かった平山なので、集団の端の方にいることが安心に繋がることもあったからだ。
作品名:短編集113(過去作品) 作家名:森本晃次