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短編集113(過去作品)

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「家にいる時の君はどんな顔なんだろうね」
 と聞かれたとして、その時に家にいる時の自分の顔を思い出すことができるだろうか。表情にしてもそうである。家にいる時が、一番自分の顔を見ているような気がする。店に入る時も、会社に着く前も、必ず鏡で化粧をチェックするのだが、それはあくまでも普段の自分ではないという確認をしているにすぎない。最初こそ、化粧の乗りを気にしていたが、よくよく考えると、普段の自分の顔が少しでも見えれば、それは自分の裸を見せているのと同じような感覚に陥るのだった。
――恥ずかしい――
 一歩表に出ると、いつもそれを感じてしまう。
――いつから普段の自分が恥ずかしいと感じるようになったのだろう――
 少なくとも学生時代にはそんなことはなかった。やはり不倫をしていた時に気付いたのだろう。
 知らなかったとはいえ、不倫をしていたことは事実、知ってしまってからどうしていいか分からなくなったのも事実。その頃から自分の考えていることをまわりに知られることを嫌がるようになっていた。
 知らなかったということが、これほど恥ずかしいことだと思ったことはなかった。
 小学生の頃にも、皆知っているのに自分だけが知らないことがあったりして恥ずかしい思いをしたことがあったが、似てはいるが、感覚は違うものだった。大人になれば感覚が少しずつ鈍ってくるように思うのだが、それは自分の中での防衛本能が働くからなのかも知れない。
 防衛本能とは意識して起こるものではない。本能というのは、先に意識してしまうようなら本能とは言わないものだという意識があるからだ。
 もって生まれたものであったり、長年の経験からくせがついたりしたものも、広い意味での本能になるのではないかと思う。だから、恥ずかしいという思いをなるべくしないようにと思っていると、そこには防衛本能が働くのだ。
 学生時代はそれでもまだ何とかごまかせたが、社会に出るとなかなかそうは行かない。
 相手は海千山千の社会人。甘えが通用しない世界である。
 だが、学生時代よりもしっかりした秩序がそこにできあがっている。相手をしっかりと大人の目で見ている人が気を遣いながら生活しているのである。表があれば裏もある。裏側の存在に気付かずに表だけしか見ていないと、なかなかその世界で自分の立場を維持することはできないだろう。
 人から教えられるものではない。どれだけまわりの空気を読んで、自分のものにするかが大切である。
 不倫を始めた最初は、そのことが分からずに、相手を全面的に信頼していた。知ってしまった時には、相手の気持ちを考えられるようになっていたことは、愛子にとっても相手にとってもよかったに違いない。
 ひょっとすると相手の男は見る目がしっかりしていて、
――愛子なら、きっと分かった時には大人になっているさ――
 という計算があったのかも知れない。
 愛子も今ではそう思うこともあるが、相手の計算に乗ってしまった自分が悔しいという思いはあまりない。それよりも、自分が大人の考えを持てるようになったことがよかったのだろうと考えるようになっていた。
 だが、同時に大人の考えになってしまったこといかがなものかという思いも否めない。大人になるとそれだけ恥じらいを忘れてしまうのではないかと思うからだった。
 恥じらいは忘れたわけではない。いろいろな場面でその時々の自分を表に出すことで、本当の自分を隠せるようになった。本当の自分を表に出してしまうことが、今当面では一番恥ずかしいことであった。
 店にいる時はママをいつも見ている。
 一人で黙々と仕事をしているママさんもいれば、接客をしている時のママさんもいる。その時々で絶えず貫禄というオーラが出ていて、見ているだけで眩しくなることもある。
 愛子はついつい口癖が人のマネになってしまったりすることが多い。ただ、その人の前ですることは控えていた。そのためにママさんの口癖はついつい会社にいる時に出てしまう。
「永瀬さんを見ていると、時々ドキッとする感じがあるんだけど、何でなんだろうね」
 と、同僚の男性に言われたことがあるが、それはきっとママさんの口調が無意識に出ているからに違いない。
 そんな時、スナックに一人の男性が現れた。見覚えがあるが、誰だったか覚えていない。自分にとってかけがえのない人のはずだと思うのに思い出せないのだ。
 相手はすぐに愛子だと分かったようだが、そのことを一言も口にしない。あくまでも店の女の子である「由香」として接している。
――これがこの人の優しさなんだ――
 店に入ってから、ケロッとした顔をして簡単にウソをついてきた自分が恥ずかしい。
 自分が不倫をしていたことで、いつまでも自分の中にわだかまりを持っていて、そおわだかまりはずっと消えないものだろうと思い続けてきた。
 それがトラウマになっていた。会社にいる時の方が、むしろあっけらかんとしたもので、自分が不倫をしていたなど意識していないくらいである。
 会社にいる時はどうしても縦割り社会、権力を持っている人を軽蔑してしまっているが、店の女の子として客と接する時は、なぜか権力を持った人の言うことが一番だと思い、力関係で、人の言うことを信じてきた。
 OLの自分と店の中の自分とでは明らかに違う自分になっている。
 しかし彼が現れてからは、店の中でも権力のない人の言うことも、もっともだと思うようになってきた。彼に男性としてのオーラと、忘れていた何かを思い出させるものを感じたからである。
 二重人格である自分が次第に近づいてくるのを感じる。そして、この男性が自分を救ってくれそうに思うのだった。
 そう感じると相手の男性が誰だか分かってきた。次郎だったのだ。
 なかなか話すこともなく、意識だけが残ってしまって、そのまま大きくなった。だが、間違いなく子供から大人に変わった時に自分のそばにいた男性だった。
 そういえば、母親が言っていたっけ。
「私があなたのお父さんと結婚したのは、昔の自分を思い出させてくれた人だという存在を感じた時だったのよ」
 スナックで働いていた母親の言葉など、信憑性がないと思っていたはずなのに、その言葉だけ覚えている。きっと店で一人虚勢を張っていた自分の気持ちを抑えていたのも、その話をしていた時の母親のイメージを捨てきれずにいたからだろう。
――やはり親子なんだわ――
 そう思うと、忘れていた父親のイメージを次郎に見ることができた。
「俺の顔に何かついているかい?」
 無意識にじっと見つめていた次郎にそう言われた時、
「やっと思い出してくれたんだね」
 と微笑んでいる彼の言葉が頭に浮かんで離れなかった……。

                (  完  )

作品名:短編集113(過去作品) 作家名:森本晃次