短編集113(過去作品)
「自分のことが分かってくると、結構何でもできるって思うものなのよ」
「普通は逆なんじゃないですか?」
「そうよね、でも私は違ったの。きっといつもいろいろ考えているので、飛躍した考えばかりで却って現実の方が自分のやりたいことができる世界だって思ったのかも知れないわね」
スナックを開くにもお金がいるはずだ。彼女のどこにそんな力があるのか分からないが、彼女を見ていると、まんざらでもなく思えてくる。世の中は広いようで狭いのかも知れない。
「私もここで働いてもいいかしら?」
「いいわよ、あなたなら歓迎だわ。会社も辞める必要はないからね」
と言ってくれた。もとより会社を辞めるつもりもなく、会社にバレればまずいだろうが、それまでは何とかなりそうに思えた。世の中が広がることだろう。
会社での世界と夜の世界はまったく違っている。
男たちも夜は無防備で、結構気さくであることにはさすがに驚いた。いやらしい目で見つめてくる男性を、いかにいなしながら楽しい時間を過ごさせるかというのが自分の仕事だと思っていたが、結構自分を出しているだけでも楽しい。昼間の自分がウソではないかと思ってしまうほどだった。
スナックというところ、客の中には確かにいやらしい男もいて、決して接しやすい客ばかりではないが、それも酒が入っているからだと思えば、まだ我慢もできる。会社にいて、社交辞令だけで、内心では何を考えているか分からない人間よりもよほどマシである。スナックで男性客を相手にしていると、余計に会社でのまわりの人間が怪しく感じられてくる。
アルコールが入ると、男は甘えん坊になってくる。寂しがり屋になるというべきだろうか。しかもそこに優しい声を掛けてくれる女性がいるのだから、男性にはたまらないだろう。
スナック通いする男性の気持ち、分からなくもない。皆子供に帰りたいという願望を持っているかのようだ。そんな男たちを見ていると、愛子も自分が次第に子供に帰っていくのを感じている。
しかし、帰りたいと思う子供は、自分の子供時代ではない。
――こんな子供だったらよかったのに――
と漠然と考えていた子供である。
ある意味、自分の性格からはなれなかった子供時代。それに憧れるのである。
パラレル・ワールドという言葉を聞いたことがある。同じ時間でも、一つ違う次元にもう一人の自分がいるかも知れないというようなSF世界の発想である。もちろん、パラレル・ワールドがそれだけの概念ではなく、時間は次元、時空というものの概念の総称であるらしいのだが、詳しくは愛子も知らない。
スナックに勤めるようになったのも、偶然のきっかけだった。もしスナックのママさんと知り合わなかったら、スナックなどというところに縁がなかったに違いない。そう考えると、世の中すべてが偶然で成り立っている。偶然が必然になってしまった世界だけを見ているだけのことなのだ。
ということは、他の偶然の起きえただろう。
たくさんの偶然の中の一つでも違えば自分は違う生活をしている。自分が違ってくれば、自分に影響を受けた人間も変わってくる。そうしてまわりが少しずつ違う生活をしていれば、そこにはまったく違う世界が広がっているかも知れない。
無限に続く時系列は縦のラインしか見ていないが、横のラインだってあるかも知れない。まるでミラーハウスに閉じ込められていて、まわりが見えなくなっているだけのように感じるのは、愛子だけであろうか。
普通、そんな話をすることはない。終わりのない話をするのは、暇な時であればいいのだが、なかなか普通の会話では成り立たない。
だが、スナックの会話としては、意外と面白いものだ。
ある日客の一人がSFや次元の話を始めたことがある。愛子も興味深く聞いていたが、なかなか話に入るきっかけがなかった。
スナックには男性二人が来ていて、お互いに会話に集中し、自分たちだけの世界を作ることで、会話が白熱していたのだ。
「由香ちゃんはどう思う?」
由香というのは、愛子の店での名前である、本名の愛子でもよかったのだが、違う自分を出したいという思いと、愛子という名前を自分自身が気に入っていなかったこともあって、店での名前は変えていた。
話も途中からで、仕事をしながらだったので、完全に話が繋がっていなかった。
「そうねぇ。でも違う世界にもう一人の私がいれば、すごいかもね」
抽象的な話をした。
「そうなんだよね。今こうして話をしている世界のすぐ裏に、もう一人の自分がいるかも知れないと思うと不思議だよね。しかも相手もこちらの存在を知らない。でも、今ここで向こうの世界を意識した瞬間だけ、向こうの世界のもう一人の自分も同じようなことを考えているかも知れないな」
「ということは、自分が他の世界のもう一人の自分の存在を意識することは偶然ではないと?」
「そういうことになるね。偶然ばかりだと思っていることも実は必然なのかも知れないし、必然だと思っていることも、実は偶然が重なり合っただけなのかも知れない」
愛子が普段考えている内容に限りなく近いように思え、二人の会話から耳を離すことができなくなっていた。
「世の中って、皆が考えているほど単純じゃないんだ。でも。考えすぎるとキリがないよね?」
「そうなんですよね。夜も眠れなくなっちゃう」
少し大袈裟かも知れないが。スナックでの会話くらい少し大袈裟でもいいのではないかと感じた愛子だった。
「でも、キリがなくなるほど難しいものでもないと思うんだ。だから考えるなら適当にしておかないと、相手と入れ替わってしまうかも知れないよ」
「それはどういうことだい?」
「俺はもう一人の自分と会えるのは夢の中だけではないかと思うんだ。夢の中って、主人公である自分がもう一人の自分で、本当の自分は客観的に夢を見ている自分なんだよね。まるでテレビドラマのような感覚だよね」
「なるほど、それも分からなくはないな」
「そうだろう。でも、俺が今までに見た夢で一番怖かった夢というのは、本当の自分も夢の中に出ているんだ。そして。もう一人の自分と夢の中で会うことになる」
「それが怖い夢だというのかい?」
「ああ、夢から覚める瞬間って、分かる時があるんだ。その覚める直前に、もう一人の自分が現れ、俺を殺そうとするんだ。その瞬間に目が覚める」
夢から覚める瞬間が分かる時があるという感覚は、愛子にもあった。だが、それは目が覚めてから思い出した時に感じることだとばかり思っていたが、今までの話の経緯から重ねて考えると、この男性の話している内容も、すべて自分の経験に当て嵌めることができるように思えてならない。
「夢って本当に恐ろしいものだね。最終的に自分を苦しめることになるのは、案外と夢に出てきたもう一人の自分が暗示しているのかも知れないと思えるからね」
「そういえば、以前面白いドラマを見たことがあるのを思い出した」
ずっと話を聞いて相槌を打っていた方の男性の話であった。
「そのドラマは短いものだったんだけど、印象に残っているんだ。たまに思い出すことがあったんだけど、今の話を聞いていて、何となく気になっていたことがどういう種類の怖さか分かってきたような気がするんだ」
作品名:短編集113(過去作品) 作家名:森本晃次