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短編集113(過去作品)

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 父親が離れて暮らしていたために、母親の後ろ側に父親を見ていたに違いない。愛子が小学生時代男っぽい性格だったのも、そんな家庭の事情があったからだと気づいたのは、中学に入ってからだった。それだけ中学というのは、小学生時代と違った性格だったのだと、今さらながらに思えてくる。
――子供の頃の性格を持ったまま大人になれれば、それが本当はいいのかも知れない――
 愛子は時々考える。大人になるにつれて、大切なものを少しずつ忘れていっているように思えるからだ。
「二十歳過ぎればただの人」
 そんな言葉があるが、二十歳を過ぎる頃に、愛子が一番自分に感じたことだった。
 今、愛子は昼OLをして、夜スナックでアルバイトをしている。何かをしていないと落ち着かない性格になったからだと自分で思っているが、それも、大人になってから臆病になったからだと考えるようになった。
 臆病というのは少し違うかも知れない。
 現実を見ることができる人間になったということだろうと考えるようになったが、それも長くは続かなかった。
 最近の愛子は、現実を見つめているつもりでも、あまり考えないようにしている。考え込んでしまうと、袋小路に入り込んでしまうことが分かっているからで、そんな思いをするようになったのは、男性と大人の関係になってからだろう。
 相手は会社の上司だった。その人には奥さんも子供もいる。
 もちろん、最初はそんなことなど知る由もなく、
「大人の男性だわ」
 と、彼のそばにいる自分に酔っていたところがあった。
 大人になったと自覚したのは、自分を客観的に見ることができるようになったからだろう。内面からしか見ることがなかった頃は、自分の大きさが分からずに、回りばかりを気にしながら、その実、自分に不安を持っていた。まわりがどのように見ているかが気になって仕方がなかったからだ。
 だが、客観的に見るようになると、自分の大きさに気付き始める。
「こんなに小さいんだ」
 と思う時もあれば、
「あれ? 大きく感じるわ」
 と思う時もある。要するにまわりから見ている自分もその時の精神状態によって見えているものがハッキリしないのである。
 時々、
「自分の影を見ているんだ」
 と感じることがあるが、影というのは、実像よりも大きいものである。実像を大きく映し出したものが影だと言ってもいいくらいで、それだけに薄いものなのかも知れない。
 愛子は自分の大きさに疑問を持っていた。もちろん、身体の大きさではなく技量の大きさだが、見え方が違うのは、見る角度が違うからだと気付いたのは最近のことであった。
 いわゆる不倫をしている時の自分は、普段の自分とは違っている。どちらが本当の自分かと聞かれれば、
「不倫している時の方が、本当の自分なんだ」
 と感じていた。
 つまり相手に妻子があることに気付いてから変わったわけではない。しいて言えば、
「妻子からこの人を奪ってやろう」
 とまで考えたほどだ。
 自分が可愛かったのかも知れない。自分を正当化したくて、不倫という負い目を感じないために虚勢を張っていたのも事実だが、モチベーションが低くなって、相手の男性に覚めた気持ちになられることが嫌だった。
「振るなら自分からだ」
 精一杯の虚勢である。自分が捨てられれば惨めになるのは目に見えている。不倫という悪いことをしているのだから、惨めになった自分に世間は冷たいだろう。そこまで分かっていることだった。
 それならばせめて悪なら悪の道を突き進もうと考えるのも仕方のないことではないだろうか。弁解の余地もないほど打ちのめされたくはなかった。
 だが、考えれば考えるほど、見えてくるのは自分のことばかりだ。相手がどうであろうが関係ない。自分がどうすれば傷つかないかだけしか考えられなくなっていった。
 それでも最初は相手の気持ちばかりを考えていた。
 不倫だと分かってからのこともである。
「不倫だと相手が隠そうとしていることに気付いけば、自分の負けである」
 と、そんな風に考えていた。
 愛子にとって、相手の男性がどんな生活をしている人なのかあまり興味がなかった。それを、
「愛が薄いからだ」
 と気付いてからは、相手が気になるようになった。
 まるで、昔流行った演歌のように、
「あなたが庭で芝を刈っていた」
 という歌詞が思い出された。
 しかし意識をすればするほど、まるで他人事のように思えてきたのも事実で、そのうちに自分が子供に帰っていくようにさえ感じられた。
――可愛い女を演じたい――
 そんな思いが頭をよぎる。
 それも自分が寂しいということを自覚しているからだろう。誰かに意識してもらいたいという気持ちの強さが、
――寂しくても一人でもいい――
 に繋がっているかも知れない。
 一人でいいという虚勢を可愛いと思っている時は、何かエネルギーを溜め込んでいる。もし別れたとしても、残るものは悔しさで、寂しさはないだろうと思っている。
 別れはすぐに訪れた。男が転勤になったのである。
 その時に、男は意を決したのか、自分に妻子がいることを打ち明けてくれた。
 取り乱すことなく話を聞いていたのは、これが今生の別れになると思ったからである。もし少しでも未練があるのなら、もう少し取り乱したことだろう。
 だが、
「僕は単身赴任するつもりだ」
 という話を聞いて、取り乱すのをやめた。
――奥さんはどう思っているのだろう――
 優しい旦那が一人で暮らすのを黙って見ているのだろうか?
 彼は愛子には優しかった。大人の男としての優しさだった。まるで父親のような優しさと言ってもいい。だが、その同じ優しさを奥さんにも見せているのだろうか?
――いや、そんなことはないだろう――
 もし自分が彼の奥さんであれば、同じような優しさは求めない。父親のような優しさは夫婦間では無意味だと思ったからだ。結婚生活とはもっと現実味のあるもので、シビアなものだと思っている。付き合っている男と女が普通に別れるのとはまったく訳が違っているはずだからだ。
 基本的にはお互いが意見を言い合えるような立場でなければならない。一方的に優しくて、父親のような相手であれば、口に出せないこともおのずと出てくるに違いない。そんな関係でなければ、お金が絡んでくれば必ず自分の主張を通そうとする。すると泥仕合になるのは必至であろう。
 そんな夫婦も実際にはいる。お金が絡むと結局は夫婦と言っても他人である。
「結婚なんてするものじゃないわ」
 という話を聞くが、女性からすればそう言いたいのも分からなくはない。
 女性は男性と明らかな違いがある。
「女はね。我慢する時は、徹底的に我慢するのよ。でも切れると、もう修復不可能になるのよ」
 離婚した人の話だった。実はスナックで働き始める最初のきっかけを作ってくれたのが彼女だった。
 彼と一緒に行ったスナックに入っていた女性だったが、近いうちに独立するという話を聞いていたので、遊びに行ったことがあった。
「本当に独立したのね」
「ええ、私は有言実行型なのよ。やる時はやるわ」
 と言って笑っていたが、目は鋭く光っていた。何か遠くを見つめているようで、どこからそのエネルギーが出るのか不思議だった。
作品名:短編集113(過去作品) 作家名:森本晃次