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未解決のわけ

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 肺気胸質の若狭教授は、テレビに露出することは最近ではほとんどなかった。五十代前半では、教育放送の番組で、講師を行っていたこともあったが、あの頃と比べると、今ではだいぶ違う、当時の脂ぎった雰囲気からいれば、今は明らかに好々爺であった。
「まるでおとぎ話に出てくる、おじいさんか、水戸黄門さんのような雰囲気になってきたかな?」
 と鏡を見て、若狭教授は感じていた。
 テレビ出演している頃は感じなかったが、五十代も後半になってくると、急に活力がでなくなり、その分、定年後の余生を意識するようになってきた。
 実際に大学に通わなくてもよくなってからは、自分でも意識して老けてきたのを感じた。いずれは定年退職ということは意識はしていたが、いざとなると、本当に何をしていいのか分からず、他の人のようにまず、市のシルバーセンターにやってきた、
 一応は登録し、何かできることはないかという程度に考えていた。
 シルバーセンターの人もさすがに、
「この経歴をお持ちでしたら、何も再就職などを考えなくても、市の方には文化振興課というところがあって、芸術や文化を管理したり奨励する部署があるので、あなたであれば、いくらでも何かできることがあるかも知れませんよ」
 と言ってくれたので、さっそく文化振興課に足を踏み入れたのだった。
 そこで俳句教室の記事を見て、
「これなら私にでも」
 ということで、文化振興会の扉を叩いた。
「ぜひよろしくお願いします」
 ととんとん拍子に決まったが、もし決まらなくても、
「一度生徒になって、講義を受けてみるのも面白いかも知れないな」
 と思うようになった。
 すんなり決まったので、講師になったが、本人は講師という意識はない。一緒に楽しめればいいと思っているだけだった。
 そんな中で、一人の主婦が、サラリーマンと仲良くなり、いつも一緒に行動しているのが見受けられた。
 それを若狭教授は気付いていて、
「微笑ましい」
 とさえ思っていた。
 ただ、同年代の中には、
「あの二人は不倫でもしているのではないか?」
 ということで、教授に進言してくる人がいた。
 教授は、そういうことはプライベートなことで、あまりきにすることではないと思っている方なので、
「まあ、いいじゃないか。別に表立ったって悪いことをしているわけではない」
 と教授が窘めると、
「確かにそうなんですが」
 と不服そうではあったが、教授の話している言葉に間違いはない。
 しかも、教授にそう言われると、最初に自分が何を興奮していたのか分からなくなるくらいに落ち着いていた。
――こういう教室での不倫をあざといという意味で嫌っていたのだろうか?
 という思いと、
――羨ましくて、二人に嫉妬しているのだろうか?
 という思いが交錯した。
 後者であれば、自分が何か刺激を求めているのかも知れないと思い、逆に自分がモテる男で、不倫相手として選ばれたら、自分はどう感じるかなどということを考えてみると、少し人を疑った自分が恥ずかしくなるくらいだった。
 彼は、かなり留飲を下げていたが、そのうちに、別の主婦と仲良くなったようだ。
 その様子を見て、教授はこの教室で、そういう不倫と言っていいのか、中年の男女が仲良くなるという風潮があるのが見えてきたことをどう感じているのだろう?
 これが教授ももう少し若ければ、
「けしからん」
 と思っていたかも知れない。
 それはあくまでも倫理的な問題で、
「不倫はよくないことだ」
 という教育者としての立場のようなものを意識してしまうのではないだろうか。
 そう思うと、
「私も年を取ったんだな」
 とあらためて感じさせられた。
 それはそれで嫌なことではない。年齢相応の顔になっているのだろうと自分でも感じていることは悪いことではないと思っているからだ。
「年は取るものではなく、重ねるものだ」
 と言っていた人がいたが、まさにその通りだった。
 俳句をやりながら、いつもそのことは意識しているような気がした。俳句を読んでいる人のほとんどが、初老以降に感じるのは、他の文学との一番の違いのようにも感じられた。
 確かに俳句を読んでいる人の肖像画などは老人になってからのものが多い。それは若くして大成できないからというよりも、年齢を重ねることで、興味を持つのが俳句だということではないかと思うからだった。
 俳句というものえをやっていると、本当に文化を感じさせる。
「不倫は文化だ」
 などと言っていた人もいたが、それも一つの考え方。
 文化とはたくさんのポケットがあり、受け口が多いから、いろいろなところから飛び込んだ人がいて、それだけ発想が豊かなのではないかと教授は考えていた。
 ただ、文化は自由がモットーであるが、最低限のルールや作法があるのを忘れてはいけない。それらに則ってやることが文化としての俳句だったりする。
「俳句というのは、、五七五という決められた文字数の中で、季語を必ず入れるという背ルールがある。まるでスポーツのようなものではないかな?」
 と話をした教授は、
「文章というのは、短ければ短いほど難しい。言い訳は利かないというところになるのかな?」
 と話していたことがあった。
 何がいい訳になるのかがよく分かっていなかったが、まさにその言葉の通りであろうと教授は感じていた。
 俳句を教授すると言っても、実際には基本的なことを教授するだけで、後は実践だった。基本的なことは、文字数の制限、それに季語を使う。しかも、季語を多重で使わないとか、季節を意識するなど。(つまり、(場の空気で、夏に由布を季語にした作品はあまり好まれない)ということを中心に教授する。
 ただ、俳句には井倉五七五と言っても、
「字あまり、字足らず」
 などとう言葉があるように、どうしても字を増やしたり減らしたりすることで、句を引き立てるという場合にしようする。
 しかし、あくまでもリズムに乗っていなければ意味はなく、バランスの取れた句であれば、それはそれで秀逸な句ということになる。
 また、季語についても、基本は、
「一句に一季語」
 であるが、これも例外として、
「季重ね」
 という言葉があるくらいに、有名な俳人が作った句にも存在する。
 実は、芭蕉が読んだ句で「おくのほそ道」に記された句があるが、この中に、探偵小説のファンであれば、メジャーになった句がある。
「一家に遊女もねたり萩と月」
 という句であるが、
「どこかで聞いたことがある」
 と思っている人もいることでしょう。
 そう、あの横溝正史先生の代表作とも言われる、あの
「獄門島」
 に出てきた俳句の一つです。
 この句には、
「萩と月」
 という部分に二つの秋の季語が重ねて入っています。
 これはお互いをお互いで補ってるという意味で秀逸な作品と言えるのではないだろうか。
 また二つだけではなく、もっとたくさん入っている句も、世の中には名句として存在します。
「目には青葉山ほととぎすはつ松魚」
 はつ松魚とは、初ガツオのことである。
作品名:未解決のわけ 作家名:森本晃次