未解決のわけ
この発想は、かつて、地震や台風などの自然災害で亡くなった中の人で芸能人がいたのだが、その人は、数十年前はスターと呼ばれていたが、今はさほど人気があるわけではなかったにも関わらず、
「天災で犠牲になった昔売れっ子だった芸能人:
として雑誌やネットで紹介され、その後、昔の追悼番組が流されたり、本屋やCDショップでその人ゆかりの商品が販売され、ランクインするなどの社会現象になったことが、発起人である、元冠婚葬祭ディレクターの目に留まり、
「これはいける」
と思わせたのだった。
「死んで花実が咲くものかと言われるけど、死んでから注目される人もいるんだよな」
と感じた。
そういえば、小説家などでも、死ぬまではさほど売れなかった人が、死んでから人気が出るというような、逆転現象になったりすることもあった。
それを思えば、今まで、それらの現象にあやかろうという商売がなかったのが不思議なくらいだ。確かに死んだからと言って売れる確率が高いのかと言えば、そうでもないような気がする。
しかも、誰が死ぬかということも分かっているわけではないので、事前の情報を得るわけにもいかない。ただ、今の世の中はネットが主流なので、誰か有名人が死んだのかどうかなど、すぐに調べることはできる。知覚であれば、いくらでも対応のしようはあるというものだ。
問題は死に方だった。
事故などの突発的なことであり、ショッキングなことでもなければ、なかなか思うようにはいかないだろう。
だが、実際に芸能事務所に情報を得ることはできるだろう。ネットにも載らないような情報さえ握っておけば、かつて売れた人が、今まさにその生命が風前の灯で、静かに何事もなかったかのように死んでいくことになるだろう。
芸能人が亡くなると、実際に死んだ日よりも、だいぶ後になって、発表されることが多い。
「なるべく静かに死にたい」
という故人の遺志だというが、それだけだろうか?
残された人もなるべく、マスコミなどに追われたくもないというのが、心情ではないだろうか。最初はちやほやしておいて、人気が落ちると、蜘蛛の子を散らすように、誰もまわりにいなくなってしまう。それを思うと、親族の方でも、いくばくかの芸能界に対して恨みめいたこともあるだろう。
静かに死にたいと思うのは、確かに人情である。本人自身が、遺言で家族葬のみを望んだり、遺書にそう書き残している人もいるだろう。だから、世間がいまさらのように寄ってくるくらいだったら、発表を遅らせて、すべてが終わった後に、公表する方がいいと考えるのだろう。
ただ、実際にそうなってしまったら、家族の中には、
「ここまで寂しいものなのか?」
と感じる人もいるだろう。
そうなると、いくら本人が一人で静かに死にたいと思っても、本人のプライドが乗り移ったかのように思うような人もいるかも知れない。
あるいは、
「ちょっと、もったいなかったかな?」
という金銭的な面での未練も無きにしも非ずであるが、最後も考えは、少し冷めたものではないだろうか。
副業として作ってはみたものの、蓋を開ければどうなるかを見て行けば、思ったよりも需要があるようだった。
芸能人の亡くなるタイミングも、さほど悪くもない。遺族に声をかけるのもさほど困難でもない。ひょっとすると、遺族の方も待っていたのではないかと勘繰ってしまいそうなほど家族は、持ち上げ屋が来るのを待っていたようだ。
「主人は、以前時代劇に出ていましてね」
と、残された奥さんが話し出す。
――そんなことは最初からリサーチ済み――
とは思っているが、口が裂けてもそんなことを口走ってはいけない。
「そうなんですか? どんな時代劇ですか?」
と訊いて、相手が何と答えようとも、時代劇など見たこともないだけに、答えようがない。
「そうなんですね? 面白そうですね?」
であったり、
「私は、まだその頃は小さかったからですね」
などとは言えない。
なぜなら、
「そうなの? じゃあ、映像が残ってるから、掛けましょうか?」
と言われる可能性が高い。
そうなると、遺族の方も今までは、
「一人でも寂しくなんかない。孤独には慣れている」
と思っていたとしても、急に人が現れて、死んでいった旦那さんのことを懐かしんでくれるのを感じると、まるで昔の若い頃に戻ったかのような錯覚を受けることになるかも知れない。
相手の年齢に戻ったとしても、まるで息子、いや、下手をすれば息子よりも若い男性が話をしてくれることがどれほど癒しになるかを思い出すのだ。
もちろん、それはそれでいい。相手をこちらの思惑通りに先導するには、寂しさに付け入るのは、一番手っ取り早いし、それしか方法はないはずだ。
だが、あまり余計なことで下手に時間を使ってしまうのはよくないことだ。最初の段階で時間を使いすぎてしまうと、何と言っても一番問題の世間が、この芸能人の死を忘れてしまう。
「人のうわさも七十五日」
などと言われているが、それはあくまでも悪いウワサのことであろう。
「どんなに誹謗中傷のような悪いウワサが立ったとしても、七十五日もすれば、人は忘れてくれる」
ということの日にちはあくまでも適当であろうが、それはやはり悪いウワサの場合である。
逆にいいウワサだったり、美談などは、皆ほぼあっという間に忘れていってしまう。箸にも棒にもかからないウワサなどは、もっとひどいもので、どんなにひどい目に遭っている人であっても無名な人のウワサは、どんなにつまらない話でも、その時の有名人のウワサには適わない。それだけ有名人というのは、影響力が強いのだ。
今から十年と少し前くらいに、
「自費出棺」
なる形態の出版社が流行したことがあった。
「素人の作品であっても、送られてきた原稿には目を通して、批評して返します。その際に出版に際してのお見積りをさせていただきます」
という触れ込みだった。
その出版社のやり口は、元々出版社に持ち込まれた原稿が、目も通されずに、ゴミ箱へポイという時代が長く続いたことで、
「うちは少なくとも原稿をしっかり読んで、筆者に感想を返す」
というだけで、筆者は嬉しかった。
出版社系の新人賞や文学賞に応募しても、審査の内容は一切非公開で、しかも、批評も何もない。それも当たり前のことで、一次審査などは、
「下読みのプロ」
と呼ばれる連中が、文章として体裁が整っているかというだけを基準に選んでいるのだから、本当に内容を読んでいるかなど怪しいものだ。
何しろ、一人一日どれだけの作品を読まされるかを考えれば、火を見るよりも明らかだ。やつらは、アルバイトのようなもので、本当に彼らの評価が自分たちの最低の評価ラインを満たしているかすら、怪しいものだ。
それを思うと、評価を返してくれるだけでも、涙が出るほどうれしいものだ。
しかも、その評価には、いいことはもちろん、悪いことも書いてある。いいことだけだと、いかにも上っ面の文章だけのようで信頼性はまったくなくなってしまうが、悪いことを書いたうえで、いいところをその後で書いてくれるのだから、本当に、
「痒いところに手が届く」
というようなものだ。