ウラバンナ(朱夏紀ー1)
現地の商工会の依頼で台北の学生と懇談する機会があった。最高学府の学生は国を守るために兵役を終えてから就職することを誇らしげに語っていた。それは平和慣れした日本に国防の綻びを問いかけていた。
現在の為政者は、多くの戦争犠牲者の上に樹立された平和国家の歴史と未来をどのように考えているのだろうか……。
その台湾出張中に池澤捷一の訃報が届いたが、死因は肝臓ガンであった。
今年の正月明けに電話してきた時には病状が相当進行していたはずであった。それをおくびにも出さずに、池澤家が地方政界から撤退すると言ったことも彼らしい潔い決断であった。
彼の葬儀には出席できなかったが、盆の同期会は彼の死によって流れた。また、彼が盆に会わせたいと言っていた人物の正体も依然不明のままであった。
私は六月末に不動産関連の子会社の社長に就任した。社内では同郷の中山常務による情実人事だと陰口をたたく者もいた。
その不動産会社は本社ビルの二階の一角にあった。昼休みは喧噪な職場を離れて皇居前の散歩が長年の習慣になっていた。
晴れ渡った青空には鷲が悠然と舞っていたが、池澤捷一の霊魂が遥々大空を渡ってきたのだと思った。
立秋を過ぎると、気忙しく鳴いていた蝉の声も心なしか愁いを帯びていた。道端に仰向けになって転がっていた蝉の羽を触ると最後の力を振り絞ってジジーと体を震わせていた。もう飛び立つ力もなく死期を迎えていた。自然はもう夏の終わりを告げていた。
広場を散歩していると、マラソン人が次々に追い抜いて行った。五輪真弓もきっとこういう場面を切り取って作詞したのかもしれなかった。
“あの日の二人 宵の流星、光っては消える 無情の夢よ”の一節を口ずさみながら秋津柊を思い浮かべていた。
八月の経営管理本部は一年を通して仕事の山も低く、会社は盆の前後に有給休暇の取得を奨励していた。このため、本社ビル内は開店休業状態になったが、かつては私も、実家の墓参りが定例行事になっていた。
都会生活は田舎の因習のらち外にあったが、田舎に帰ればその部落(最小の行政単位)や実家の習わしに従うのが嫁の務めとされてきた。
当時、新興宗教に入信した異教徒の妻を連れて帰省することはできなかったが、母はそれを悲しんでいた。六法全書で信仰の自由を理解できても、家庭内に異教徒を受け入れるほど寛容にはなれなかった。
本社ビルの地下食堂は週末になると、夕方から立食形式の社員倶楽部(ビアホール)に模様替えしていた。丸の内では便利さと割安さから人気があったが、さすがに盆前の週末は閑散としていた。
横浜工場の出身者がたむろしているテーブルで、生ビールを飲みながら若い頃の苦労話に花を咲かせた。五十路には未来を語るだけの時間がなかったので、過去時間こそ酒の肴になった。既に結末は見えていたので、正確な記憶力と少しだけの脚色に熱くなった。
本社といっても全国の事業所から選抜された社員の集合体であり、何処に異動しても出身事業所は本籍のようなもので仲間意識があった。
池澤捷一の初盆の供え物を買うために、社員倶楽部を早めに切り上げて丸の内南口から八重洲口に出た。八重洲口や日本橋は二十七年前に、人妻の柊と最後の逢瀬をした時の思い出深い場所だった。
秋津柊の噂
人形町のカンテラではNエンジニアリングの中山修一常務とR銀行の寺本光太郎専務が既に長州四人会を開催していた。この二人は“長州”という響きを愛し、特に改革者高杉晋作の崇拝者でもあった。
「先ほど,矢納君に社の倶楽部で会ったが、土産物を買うために日本橋に寄ると言っていた、間もなく来るだろう……。彼が池澤家の初盆に挨拶に行くというので寺本の香典も一緒に託けておいたぞ」
中山常務が思い出したように言うと、寺本専務は礼を言いながら財布から一万円札を出して渡した。
「池澤君には昔、地方大会で母校の野球部を初のベスト四まで引っ張ってもらった恩義があるからな……。あの試合は中山と応援に行ったが痛快だった……」
二人が高校野球の想い出に浸っている時に、矢納孝夫が遅れてやって来た。
「どうも、遅くなりました。寺本専務、池澤の香典は中山常務から預かっていますので……」
二人は軽く手を上げて、遅れて来た矢納孝夫を歓迎した。
女将を入れて四人のメンバーが揃ったが、二人は中断していた話を再開した。
長州会といっても、四人で飲むだけの気儘な集いであった。
女将の深尾光世が孝夫に小声で訊ねた。
「矢納ちゃんが本社に転勤してきて何年か経った頃だけど……、大雪の夜に同郷の美人を連れてきたことがあったでしょう……」
それは今から二十七年前の雪嵐の日のことだった。
「秋津柊さんのことですか?」
一年上の同郷の先輩だったが、現在は五十路の半ばになっていた。
「そうそう、その秋津さん、彼女とはその後どうなっているの?」
二十七年前の夜は雪嵐で交通網が麻痺して二人でツインルームに泊まったが、それを最後に秋津柊からは音信が絶えていた。
「いや、あれっきり会っていません……」
長い間帰省していなかったので、その後の柊のことは何も知らなかった。
「そうだったの……」
秋津柊のことを話題にしなかったので、女将も気を利かして彼女のことに触れてくることはなかった。
「それで、今頃になってどうして秋津さんの話を?」
彼女のことは長年くすぶったままになっていた。不本意な別れ方をしただけにずっと心に残っていたが、約束通り消息を追うことはしなかった。
「実は先日、日本橋のデパートのOB会の流れがここに来ていたの。その時に彼女のことを小耳に挟んだのよ……」
学生時代から日本橋のデパートでハウスマヌカンとして働いていたので、彼女がOBの話題に上るのはあり得ることだった。
「ふ~ん、で、彼女の話しって、一体どんな?」
長年封印していた柊への思慕を呼び覚まされて、身を乗り出すようにして訊いた。
「あの後、彼女は離婚したらしいの……知っていた? 離婚後は九州の知り合いの所に身を寄せていたそうよ……」
あの大雪の夜、女将の伝手でツィンルームを確保してもらっていた。二人が同じ部屋に泊まったことは女将の想像の中にあった。
「あの夜、離婚のことは何となく感じたけど、さっきも言ったようにあれ以来一度も会っていないし。そうですか、離婚されて九州に行かれたのですか……」
彼女の姉夫婦は、新婚時代に私の実家の離れ家に住んでいたことがあった。当時、歯科医の夫が小倉の病院に勤務していたので、姉夫婦が北九州に引っ越したことまでは分かっていた。
「それがさ、秋津さんはその後、実家に戻って二人暮らしをしていると言うのよ……」
女将は私の反応を窺うように、柊の最新情報を小出しにしてきた。
「えっ! 結婚されたのですか?」
柊が田舎で幸せに暮らしているのであれば一安心だったが、それはそれで私には複雑な思いがあった。
「いや、違うのよ。その二人暮らしというのはね、二十代半ばの娘さんと実家に住んでいるらしいの……」
柊は雪嵐の夜までヴァージンだったので、前夫の吉川弘文の子供でないことだけは確かであった。
「今も、その娘さんと実家に住んでいるのですか?」
作品名:ウラバンナ(朱夏紀ー1) 作家名:田中よしみ