ウラバンナ(朱夏紀ー1)
「そう言えば携帯は御用納めの日に、会社のデスクに置き忘れたままだよ」
営業のように四六時中、携帯電話を持ち歩く習慣がなかった。
「それはそうと、今年も正月に帰って来なかったが……、都会にいても仕事を離れれば陸の孤島にいるようなものだろう。定年はもう直ぐだし、都会暮らしは独りで大丈夫か?」
確かに独り者は会社を離れれば社会との接点がなかった。私のようにバツイチの傷を持つものは、都会人の無関心の狭間で安らぐことができた。
田舎の生活は隣近所が近すぎて煩わしかったが、その故郷から遠ざかっていれば長期連休は尚更孤独だった。
「独り生活には慣れているから、お前が心配する程でもないよ……。今さら新しい人間関係をつくるのも面倒だし、独身生活も安気でいいものだよ」
年末から連休に入って一週間が経っていたが、言われてみれば口をきいたのはコンビニの店員くらいであった。退職して毎日家にいれば不安がないでもなかったが、幼馴染みには強がりを言ってみせた。
「今は健康でも年をとれば病気もするし、毎日家に居るようになればパートナーがいるぞ。そちらで誰かいい人はいないのか?」
彼は私の独り身を心配して、定年後のUターンと再婚を口酸っぱくして進言していた。
「この歳になって、そんな相手はおらんよ。それに前妻の宗教問題で苦労したので、もう結婚は懲り懲りだよ」
私の人生にもし子どもがいれば蟻地獄のような人生を送っていた。今さらこの歳になって苦労を背負いこむ気にはなれなかった。
「ところで、今年は中学を卒業して四十年の節目の年だろう。地元では同期会をやろうと盛り上がっているので、お主も盆には帰って来いよ」
地元の名士である彼が同期会の神輿を上げれば、まだ先のこととはいえ開催は決まったようなものであった。
「同期会か……、折角だけど、俺は余り気乗りがしないよ。永く故郷を離れていると皆の話題にもついていけないし居場所がないんだよ……」
だからといって、この大都会に安らぐ場所があるわけでもなく、根なし草の老後が待っていた。
「実は事情があって今回で同期会の幹事を返上するつもりだよ……。それに、お主には他にも大事な用があるし、この盆は帰省してオフクロさんにも顔を出してやれよ、もう離婚の傷も癒えただろう……」
彼はいつにも増して盆の帰省を強要してきた。
「幹事から下りるっていうけど、お前が辞めれば同期会は事実上消滅するぞ。何か事情でもあるのか?」
同期会は欠席ばかりで非協力的だったが、彼の後任ともなると誰も尻込みするのは明らかだった。彼が幹事を退任するのであれば、同期会に出席しないわけにはいかなかった。
「いや、今回は節目なので他の者に交代するいい機会だと思っている。いつまでも俺でもないだろう……。さっきお主に大事な用があると言ったのは、実は盆に是非会って欲しい人がいるのだよ……」
彼の父親は県議で地元政界のボス的存在だったが二年前に病死していた。後援会は後継候補として次の県議選に彼を推薦しているようであった。
「お前もいい年だし、次回選挙は親父さんの跡を継くラストチャンスだろう」
彼が同期会の幹事を退任するのは選挙絡みだと踏んでいた。彼の性格からしても同期会を県議選に巻き込む愚は避けるはずであった。
「いや、親父の跡を引き継ぐのは家業だけだよ。県会議員は池澤家の家業ではないし世襲するつもりもないよ。地方政治も新しい発想が必要だし、負の遺産を引き継ぐ世代が中枢に座るべきだと思うよ」
池澤捷一は意外にも世襲をきっぱりと否定した。彼の主唱する脱世襲や世代交代は国政の喫緊の課題でもあった。
現在の国家体制を再構築するためには、明治維新のように既存の利権構造の外にいる清新な政治家こそが求められていた……。
今の若者は戦後生まれの団塊の世代と違って、国家の巨額の累積赤字を引き継ぐ割の悪い世代である。その若者世代が政治に背を向けていたので先の国政選挙の投票率は60%を割り込んでいた。
「絶対多数を占めるサラリーマンや若者らの無党派層が動けば政治体制は変わるのに依然として烏合のままだ。それをいいことに世襲議員らがあの手この手で新人の門戸を閉ざして私物化している。これでは血の入れ替えどころか政治家の資質は劣化するばかりだよ」
池澤捷一は珍しく政権批判に熱弁をふるっていたが、確かに投票率が向上すれは国会の勢力図は大きく変わるはずであった。
現在の党利党略の密室政治ではなく、国家・国民のためのガラス張りの政治こそ求められていた。そのためには、資力がなくても清新な志があれば誰でも立候補できる選挙制度こそが民主主義の根幹だと思った。
それにしても選挙という民主主義の手続きは迂遠である。池澤捷一も政治改革が一向に進まない現状にジレンマを感じていたのであろう……。
「先日、お寺に行ったら和尚が輪廻転生の話をしていたが……、生まれ変わるとしたら、お主はどういう生き方をしたい? 俺は旧家とか因習に縁のない人生を健康で全うしたいよ……。」
いつも豪快で陽気な池澤捷一が珍しく弱気なことを言ったが、心なしか言葉にも力がなかった。彼は生まれながらにして池澤家の跡取りとしての人生行路が定まっていた。
「輪廻転生か、そうだな……俺は……俺の人生は一度きりでいいよ。もう十分に苦悩を味わい悪行を積んできたし、もう十分だよ。ところで、さっき言っていた会わせたい人って一体誰だよ?」
頭の中で同級生の顔を思い浮かべていたが、一向に心当たりがなかった。
「今は事情があって明かせないが……、盆までには必ず段取りをつけておくよ。お主の老後にも深く関わりのある人だから……」
思わせぶりな言い方だったが、私を盆に帰省させる口実だと思っていた。
結局、同期会の出席を約束させられていたが、最後に再会を約して電話を切った。
幼馴染みの死
東京丸の内にあるNエンジニアリングの本社ビルは、社内ではエリートたちがしのぎを削る伏魔殿と囁かれていた。
矢納孝夫は経営管理本部に三十年勤務していたが、現在は五十路に入って間もなく定年を迎えようとしていた。
業界のエクセレントカンパニーのNエンジニアリングは事業部門を順次分社化していた。国内外に多くの子会社や関連会社を保有して日本屈指の企業群を形成していた。
人事部がいくら最新の人事評価制度を導入しても、上司と衝突して退職した者の中にも有為な人材はいた。また、体制に組みしない正論者が不遇のまま退職する事例も散見されたが、所詮は人が人を評価するのが人事である。
そういう不条理が蔓延るNエンジニアリングの企業体質は、激変する企業環境への舵取りに柔軟性を失っていき、未来にも陰りが出始めていた。
毎年、六月の株主総会でNEグループの役員人事が決定した。その一連の人事で、私は子会社の社長就任の内示を受けていた。
六月に入って台湾の高雄市と台北市に出張したが、これがNエンジニアリング一筋に奉職してきた最後の出張になった。
若い頃に台北の事務所で三年間勤務したことがあったが、新規取引先の開拓と経営状況の視察が目的だった。
作品名:ウラバンナ(朱夏紀ー1) 作家名:田中よしみ