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田中よしみ
田中よしみ
novelistID. 69379
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ウラバンナ(朱夏紀ー1)

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前妻も空疎な夫婦関係に見切りをつけて宗教に帰依する生き方を選択したのであろう。私が一人の女性を宗教の闇の世界に追いやった罪は消えなかった。これからもその罪を背負って生きていかねばならないのであろう……。


不惑の独り身
 前妻との別居を機会に社宅を退去してアパートで一人暮らしをしていた。
都会は田舎のような近所付き合いがなかったので、無関心の谷間の中で気楽な毎日を送っていた。
そういう時に、職場の先輩が上司と意見の不一致から中途退職することになった。その先輩はK大卒の俊才で、仕事でも独立不羈の精神を旨とした是々非々の正論者であった。日頃から私と意見が合い、何かと目をかけてくれていた。
退職後は名古屋で実家の書店を継ぐことになり、参宮橋のマンションはその先輩から格安の条件で買い取ったものだった。
参宮橋の一帯は都心に近く、丸の内まで一時間足らずで通勤できた。参宮橋駅から徒歩で十分足らずの所にオリンピック記念青少年総合センターがある。田舎の産炭地で育った私はこういう立派な施設があることも知らなかった。この代々木公園一帯は戦争の歴史に深く関わっていた。
戦前は陸軍の練兵場や学徒の教練場となり、戦後はワシントンハイツ(軍用地)として進駐軍(米軍)に接収されていた。
当時、物資不足で復興が一向に進まない中で、東京の焼け野に最初にできたのはアメリカ人のための施設だった。塀に囲まれたワシントンハイツではアメリカ人が豊かな暮らしをしていた。その塀の外では敗戦の苦しみにあえぐ日本人が必死に生きようとしていたのである。
昭和三十九年の東京オリンピックの年に日本に返還されて、選手村や競技場として役割を果した。オリンピック後はオリンピック記念青少年総合センターに生まれ変わっていた。
私は休日になると、この付近を散歩することがある。戦争や戦後を知らない若者が流暢な英語で外国人と談笑している姿を見かける。彼らはこの一帯の歴史をどの程度理解しているのだろうか……。

参宮橋のマンションに移り住んで間もない頃、R銀行が倒産企業の跡地買収を打診してきた。社内では予てより横浜工場の拡張計画を検討していたので、その跡地を買収するタスクフォースを立ち上げた。私はリーダーに任命されたが、この人事はR銀行の寺本支店長の意向が影響していた。
日本橋にあるR銀行の本店で担当審査役から跡地の説明を受けた。その時に吉川弘文が勤務していた工場の跡地であることが分かった。
R銀行の定例常務会で当社への売却案が承認されたが、それは小料理屋カンテラのメンバーでもある寺本支店長の尽力に負うところが大きかった。

七月に入って現地検分のために横浜に出張した。駅前で秋津柊と再会した場面が甦ってきたが、それから二十年が過ぎていた。
現地は工場も解体されて基礎の残滓だけになっていた。荒涼とした風景が企業の栄枯盛衰の厳しさを物語っていた。当時、従業員や家族は突然職を失って苛酷な毎日を送っていたが、吉川夫妻も少なからずその影響を受けていた。
後背部の山麓に吉川夫妻の住んでいた社宅があった。建物は取り壊されており、吉川家の花壇跡には雑草が生い茂っていた。


2800メートルの鉄道の廃止
三井三池炭鉱は平成九年(1997年)三月三十日に閉山したが、奇しくもその翌日の三十一日に故郷の大嶺線の廃線の式典が行われていた。
明治以来、大嶺炭田の鉄道として石炭輸送の役割を担ってきた。昭和四十五年(1970年)の閉山によってその役割を事実上終えていた。その後は大嶺町の住民の足として利用されていたが、人口の減少によって利用客が激減していた。赤字路線となった大嶺線はJRの経営合理化で切り捨てられていたのである。
 廃線の式典がウエブに投稿されていた。鉄骨スレート構造の古めかしい駅舎が映り出されていた。駅のプラットホームには四両編成の特別仕立てのさよなら列車が待機していた。プラットホームや車内も大嶺炭田に所縁の人たちで賑わって
いた。
大嶺駅は明治以来各地から集まってきた炭鉱労働者を受け入れてきたが、最後はヤマを追われた炭鉱夫一家の旅立ちの駅になった。
炭鉱夫一家は日本中が東京オリンピックに沸く最中に、この駅から片道切符で新しい仕事を求めて離散した。

その彼らも、今は日本のどこかで老後を迎えているはずである。彼らは大嶺駅がなくなったことも、大嶺線が撤去されたことも知っているのであろうか……。
炭鉱跡は錆びついた残滓に雑草が生い茂っていたが、彼らが再び列車に乗って大嶺駅に降り立つことはもう叶わないのである……。
その日、十九時二十六分に大嶺駅発の最後の列車が発車した。もの悲しい汽笛は恵まれることのなかった炭鉱夫一家の嘆きのように聴こえた。
明治の日露戦争で経済性を超越した国策によって建設された鉄道は、その後日本の近代化を支えてきた。それが平成になって経済合理性のもとに国家に切り捨てられたのは、歴史の皮肉としか言いようがなかった。
明治以来栄華を極めてきた元炭鉱町はこれで陸の孤島と化して、過疎化と高齢化だけが進行して限界集落に萎んでいった。

チャプリンの映画「独裁者」の結びに観衆の心をうった有名な演説がある。
『私たちは、お互いに助け合いたいと望んでいます。
他人の不幸によってではなく、他人の幸福によって、生きたいのです』
今の日本は他人の不幸によって生きようとする者が多いような気がする。それは戦争という苦難の時代を知らない戦後世代が、日本の中枢に座ったことと関係があるのだろうか……。 
大嶺炭田の語り部である鉄道が廃止されれば、日本の近代化や復興への功績も日本人の記憶から消えていく……、炭に塗れた炭鉱夫の顔を思い浮かべていた。


幼馴染みの電話
 世紀末の正月が明けた昼下がりに家の電話が鳴った。
「もしもし」
電話帳にも載せていないのに、見知らぬ業者からの売り込み電話が多かった。
敢えて名乗らずに不愛想な声で受話器をとったが、慇懃無礼な売り込みに苛立つことが多かった。
「矢納孝夫さんのお宅ですか? 俺だよ、俺。狭いマンションなのだから早く電話に出ろよ」
俺を連発しているのは幼馴染みの池澤捷一であった。彼の家屋敷に比べればマンションはニワトリ小屋の面積にしか過ぎなかった。
「なんだ、捷一かぁ! 俺のマイホームを見下すような言い方は失礼だろう。都会は土地が高いから何処もこんなもんだよ」
池澤家は地元では旧家の家柄であり、その嫡男である彼は東京の私大を卒業すると地元に戻って家業を継いでいた。実家の田畑は戦後のGHQによる農地解放で国に安く買い上げられていた。それでも10町歩の農地と山林などを所有しており、池澤家が大地主であることに変わりはなかった。
「お主の携帯に電話したけど出ないし、孤独死かと心配したぞ」
彼のコントラバスのような低い声が鼓膜に響いたが、昔から相手のことをお主と呼ぶ癖があった。幼馴染みの池澤捷一は田舎で組織に属さずにサラリーマンとは異質の世界で自由に生きていた。その彼と話していると、都会での生活に見切りをつけて故郷に帰りたくなった……。

孤独死は阪神・淡路大震災後に頻繁に使われ始めたが、独り者にすればドキッとさせられる悲劇のワードだった。