短編集112(過去作品)
知らない道に入り込むと、今まで自分の思い通りに行かない世の中が見えてくるようだ。王様が絶対的な権力を持っているのに、世の中をどうしても自分のものにすることができないのが不思議で仕方がない時期があった。
もちろん子供の頃のことだが、今でも不思議な気持ちは残っている。自分の気持ちの中でも自由にならないところがあるのだから、自分以外の人を自由にできるはずもないだろう。
そんなことは分かっているつもりなのに、思い通りにならないことがあると、ストレスとして溜めてしまう。考えていることと、感じることでは、どこかが違っているのだ。
歩いていくうちに道がだんだんと広くなっていくような気がした。
街灯が少しずつ暗くなり始め、民家もまばらになってきたことからの錯覚かも知れない。
少し歩くと、また角があった。元いた道に出れる道であろう。
「このまままっすぐ歩いていってもいいのだが」
暗くなっていくことが一番気持ち悪い富松は、やはり角を曲がることにした。角を曲がると少し明るさが戻ってきて、道の広さもあまり感じない。
広すぎるのも怖いものだ。暗いところではどうしても視界が制限されてしまう。
暗所恐怖症と、閉所恐怖症はセットのようにずっと考えてきたが、街灯の明かりだけで歩いている道が広くなってくるのを感じると、あながちセットとして考えるほどそれぞれが単純なものではないようだ。
角を曲がると、見たことのある家が並んでいる。どうやらいつもの道に戻ったようだ。だが、よく見てみると、知っている家が寂れている。人の気配がしないと言った方がいいだろう。
いくら夜の帳が下りた時間帯だとはいえ、人通りもなく、人の気配を感じられないなど、現実味を帯びていない。家の窓は閉めきられていて、人が住んでいるのかすら疑いたくなるほどだ。
「ウォ〜ン」
遠くの方から犬の遠吠えが聞こえる。しじまをぬって聞こえるその声は、篭って聞こえた。
喉の渇きが激しくなり、汗が額から滲み出ている。流れる汗で背中も気持ち悪く、風が生暖かく感じられた。
「雨でも降ってきそうだな」
雨が降ってくる前には、降ってくることが分かるものだ。汗が滲み出るのも一つの現象だが、何よりも空気に雨独特の匂いを感じるのである。
土を舐めたような匂いがする。湿った暖かい空気がアスファルトで暖められて、埃も一緒に水蒸気として舞い上げるからだ。あまり好きな匂いではない。
富松は、よく怪我をした。
不器用なくせに冒険心があったので、よく木に登ったりしていた。犬の吠える声に驚いて思わず手を離して、後ろにひっくり返ったことがある。大怪我には繋がらなかったが、ちょうど落ちたところに小石があったからたまらない。
「うぅっ」
声にならない悲鳴を上げた。一瞬呼吸ができなくなった。悲鳴を上げたといっても、その時誰も振り向かなかったので、本当に声が出ていなかったのだろう。
一種、それは幸いした。苦しい時にまわりから心配そうな顔をされると、不安な気になってしまう。苦しい時には放っておいてほしいという感覚になるのは富松だけではあるまい。
呼吸が止まっていたのはどれくらいだろう。その間に目の前にはくもの巣が張ったような放射状の線が無数に見え、毛細血管を思い浮かべたのは、正直、
「このまま息ができなければ、死んでしまう」
という意識があったからに違いない。
呼吸が整い顔を上げると、そこには異変に気がついた友達が心配そうに見つめていた。
「俺、一体どうしたんだ?」
「俺たちが聞きたいよ。いくら呼びかけても揺すっても起きないので、死んでしまったのかと思ったもんな」
まわりで慌てふためいている友達がいるのを見ると、本当に危なかったのかも知れない。
その時に何かを見たような気がしたのだが、意識が戻ってくるにしたがってそれが何なのか分からなくなってくる。
「とにかくよかった」
富松も苦しみから解放されると、まるで他人事のように感じられた。痛みはすぐに治まって、そのまま何事もなかったように遊んだものだ。
その時に感じたのが、土を舐めるような匂いだった。それが雨が降りそうな時に感じる匂いと同じかどうかというのは分からなかった。
不思議と恐怖心として残っているわけではない。本来なら、そこまでの苦しみを味わったのだから、恐怖と同じ感覚で覚えていてもしかるべきなのに、どうやら、恐怖と苦痛は別のもののようだ。
だが、それは子供の頃のことだけだったのかも知れない。大人になるにつれて、恐怖は苦痛を伴うようになり、苦痛は恐怖を伴うようになる。しかし、不思議なことに大人になるにつれて、他人事に思えることも増えてきた。
感受性はというと、増えてきたように思う。冷めた目で見ることが多かったのはむしろ子供の頃で、冷めた目で見るということも、ある意味他人事では見れないことである。それだけに、子供の頃の方が感受性が強かったのかも知れない。大人になってからの感受性が子供の頃の感受性と意識の中で違ってきていることは明らかだ。
その日、夢を見た。角を曲がった時の夢だった。最近記憶がよみがえってくるように思えたが、最初から夢だと分かっているあたりが怪しい。夢だと思うのは起きてから思い出して夢だと感じるのが普通なのだが、この夢に関しては最初から夢だと分かっていたのだった。
昔の記憶がよみがってくる。小学生の頃に遊んだ記憶、そして、最近の記憶がその記憶に覆いかぶさってくる。
その門で出会う人々は、すべて自分の知っている人ばかりなのだ。
小学校の頃の先生、友達のお母さん、そして、小学生の頃に好きだった女の子。皆それぞれ年を取っていて、優しい顔で見つめてくれる。
その顔に恐ろしさを感じるのはなぜだろう。優しい表情を見た記憶があるのだが、その時の顔とはまた少し違う。哀れみを持ったような表情に思えるのだ。
「僕が何をしたんだい?」
すれ違いながら声を掛けるが、声になっていない。そして、自分の前を通り過ぎる時の横顔だけが瞼に残り、ハッと思って後ろを振り返ると、そこには、もう誰もいない。ただ真っ暗な闇が広がっているだけだった。
「振り返ってはいけなかったんだ」
前を向いて歩いている時は、街灯がくっきりとあたりを照らしていて、影もハッキリと見えていたのだが、後ろを振り返って闇が見えた瞬間に、
「振り返ってはいけなかったんだ」
と感じた。何を根拠に感じたのか分からない。そこに何の力が介在したのか分からないが、恐怖を感じると、前を向くのも恐ろしい。
それでも振り向くしかない。
前を振り向くと、そこには同じように闇が広がっていた。
前を向いて歩くのも、後ろを振り返って後戻りするのも同じことだった。それよりもすでに後ろも前も分からなくなってしまっている。後ろを振り向いて。さらに前を見た瞬間に、方向感覚が失われてしまったのだ。
笑い声だけが響いている。笑い声は湿気を帯びて篭っている。視覚がまったく役に立たないので、聴覚や嗅覚だけが頼りである。
キーンという耳鳴りが聞こえてきて、雨が降りそうな匂いを感じる中に、ほのかにアーモンドのような香りが感じられた。
最初は身体に雨が降り注ぐ冷たさを感じていた。
作品名:短編集112(過去作品) 作家名:森本晃次