短編集112(過去作品)
そのうちに喉の奥が熱くなり、喉を掻き毟りたくなるような錯覚に襲われた。
「これは夢なんだ」
と思うと、スーッと痛みが消えてきて、身体の感覚が麻痺してくるのを感じた。宙に浮かんでいるような感覚とはこのことだった。
本当に宙に浮かんでいる感覚は身体に打ち付ける雨の冷たさを拭い去っていた。それでもキーンという耳鳴りと、アーモンドのような匂いが消えることはなかった。
しばらくすると明かりが戻った。
またしても街灯の中を歩いているのだ。
――やっぱり夢なんてこんなものなんだ――
夢を軽く見ているような気持ちが自分の中で嫌な予感に変わってくる。
ゆっくり歩いていると、目の前にたくさんの人だかりが見えてくる。嫌な予感を胸に歩いていると、耳鳴りと一緒にざわめきが聞こえてきた。
「どうしたんですか?」
と訊ねると、相手がこちらを振り返る。
その顔には見覚えがあった。さっき見た友達のお母さんだった。だが、振り返った瞬間のその顔は、もはやこの世の顔とは思えないような表情をしていた。目をカッと見開いて、見開いた瞼の上にハッキリと富松自身が写っている。その表情は、まったくの無表情で、今の心境を表わしている顔ではなかった。今はこの状況に少なからずの興味を抱き、だが、心の底で明らかなる嫌な予感が渦巻いている。そんな心境を映し出すような複雑な心境をしているはずだった。
相手は、しばしかなしばりにあったかのように立ちすくんでいる。こちらも瞼に映し出された自分の姿にかなしばりにあってしまった。決して相手の表情に対してのかなしばりでないことは間違いない。
その呪縛が解かれたのも、やはり、これが夢の中での出来事だと思うことだった。だからこそ起きてからも、
「最初から夢だと分かって見ていた夢だったんだ」
と思えたのである。
彼らの足元に目をやると、そこに転がってるのは口から血を流し、目はあらぬ方向を見つめて死んでいる自分の姿だった。アーモンドの匂いは、青酸カリだったのだ。
自分が死ぬ夢を見るなんて、今までにもなかったことだ。死にそうになるところで目が覚めたことはあったが、死んでいる自分の姿を見るのは初めてだった。起きてから、
「今のが夢だった」
と感じたのではなく、最初から夢を見ていると思っていたのも、それが一つの要因だったのかも知れない。
それにしても、さっき通った道をまた通る夢、そこで自分が死んでいる夢、実に不可思議だ。しかも、普通に死んでいるのではない。青酸カリを使用しているということは毒殺されたということだ。
「死ぬとしたら、どの死に方が一番楽に死ねるかな?」
学生時代に不謹慎な話で盛り上がったことがある。
「思い切って飛び降り自殺は?」
「そうだな。飛び降りだと、飛んでいる間に死んでしまうらしいぞ。ある意味楽かも知れないな」
「だが、グジャグジャになってしまうのも嫌だな」
「何言ってるんだ。どうせ死んだら自分の姿なんか見えるわけないだろう」
「そうなんだけど」
と言っていた友達の顔が印象的だった。
「思い切ってということなら、電車に飛び込むのもいいかも?」
「電車だと、残された人に、かなりの賠償金がいくらしいぞ。列車を止めたことでな。遺族だろうが関係ないらしい。そういう意味ではさっきの飛び降りも同じことが言えるな。飛び降りた先に誰かがいないとも限らない。飛び降り自殺のあおりを食らってしまうのはあまりにもかわいそうだ」
「確かにそうだな」
「じゃあ、ガスは? ガスだったら寝ている間に苦しむこともなく、死体も綺麗なままで死ねるのでは?」
「いやいや、もし生き残ったらどうなる? 後遺症が残るぞ。ある意味誰かに発見されて助かる可能性は一番高いわけだから、そこまで考えておかないと、死ぬにも死に切れないってことになっちゅうぞ」
確かにそうだった。死のうと決意しても、なかなか死に切れないもの。手首を切る人でもためらい傷が残ってしまう人もたくさんいる。
「じゃあ、毒は?」
「毒ならかなり苦しむかも知れないが、死に切れないということはないかも知れないな」
その時の話が頭に残っている。
一番確実に死ねる服毒と、飛び降り自殺をしてグシャグシャになってしまうことを懸念していた時の友達の表情とが頭の中で交錯したのかも知れない。
死にたいとまで思うことは今のところない。死にたいと思うことというよりも、最近はストレスが溜まるだけで、いいことも悪いことも何もない。ある意味平凡な生活である。
「平凡な生活を営めるというのが、実は一番難しいのかも知れないぞ」
という話を聞くが、
「敢えて冒険をする必要もないだろう」
とも言いたい。仕事においては冒険をしてみたいと思っているくせに、仕事を離れると、ととたんに臆病になってしまう。そんな自分が嫌だった。
奇麗事ばかりを言っている同僚を見ていると、昔の自分を思い出す。奇麗事を毛嫌いするのは、昔の自分を見ているようで、それが嫌なのだ。
そのことに気付いている人は回りにいるだろうか?
最近、誰かが気付いているように思えてならない。それが誰なのか分からないが、視線を感じてしまう。視線を感じて見ると、そこには誰もいない。ホッとした気分になる。
――誰もいるはずはないんだ――
と思う。いることが怖いのだ。
人に見られていることも怖い。まわりが見えないこととどちらが怖いだろう?
真っ暗な道を歩いていて、道が広く感じられたのは、そこに誰かもいるはずがないという感覚があったからに違いない。
「なぜ、人を意識するのか、自分が見えないのだから相手からも見えるはずがない」
そんな思いが頭を巡る。
湿気を帯びた匂い、真っ暗な中で聴覚と、嗅覚が研ぎ澄まされるというが、その時に感じたのは湿気を帯びた時の匂いだった。
背中から落ちて呼吸困難になった時、それが今までで一番死に近づいた時であった。
死を意識すると、無意識に空気を吸い込もうとするのかも知れない。その時に土を舐めるような匂いを感じるのだった。
夢に出てくる人たちは、皆分かりやすい性格に見えた。普段は、あまり人のことを気にすることのない富松だったが、夢に出てきた人が何を考えているか分かっていた。
夢に出てくる人は無表情である。目を合わせても冷めた表情しかしていないが、なぜか何を考えているか手に取るように分かってしまう。
だからこそ、夢だと分かるのかも知れないが、それだけに、相手にも自分のことが分かってしまうのが怖かった。
表情がこわばってしまう。
――皆、悟られないようにしようと無表情なのだろうか――
いや、夢というのは潜在意識が見せるもの。自分で考えていること以上のことを見ることはできないのだ。
――あくまでも自分だけが作り出す虚像――
それが夢である。
悟られないようにしないと思うだろうと考えるから無表情な出演者を自分で演出しているだけのことなのかも知れない。
夢の中で気持ち悪いのは相手の気持ちが分かるからだ。こちらを見る目は明らかに怯えている。
「俺に対してなのかな?」
作品名:短編集112(過去作品) 作家名:森本晃次