短編集112(過去作品)
男性がしっかりしていれば、女性がついてくるものだと思っているのは、女性蔑視と言われるかも知れないが、決して粟津の中ではそうではない。却って自分はフェミニストだと思っている。
重要なことは男性が決めるのが当たり前だと思っているからで、そういう意味では封建的な昔の考え方をしているのだった。歴史が好きな粟津らしい考えでもあった。
粟津が好きな時代はバラバラであった。彼は特定の時代というよりも、その時々の歴史を点ではなく、線で見ることが好きだった。
――元来、歴史は線で見るもの――
これが粟津の考えである。
人物に焦点を合わせようとも、事件に焦点を合わせようともそれは自由であるが、一つの事柄を前後に広げて見ていくことで歴史が広がり、深みを増す。
自分の前後左右に鏡を置くと、鏡に写っている自分が反対側の鏡に写り、さらにそれが反対側の鏡に写って、半永久的に鏡に写り続ける。そんな現象に似ているのかも知れない。
歴史には、
――もしあの時――
という瞬間が、無数に存在している。もちろん、のちの歴史を知っている人間には、すべてが結果論でしかない。何とでもいえるのだが、それを教訓とするか否かで、今後の歴史も変わっていくだろう。教訓にしたとしても百パーセントなどありえない。
――歴史は繰り返す――
という言葉が示すとおり、いくら一人の人間が頑張ってみても、それは変えられるものではない。
タイムパラドックスという言葉がある。
過去に行って、自分に関わる歴史を変えてしまったらどうなるかということから始まっているが、歴史とはそんな単純なものではない。
例えば、今の時代から最新鋭の兵器を装備した部隊が戦国時代にタイムスリップしたとする。小説としての発想意欲が湧く設定なので、似た発想の話があるのを読んだことがあるが、現実的な発想をすることが多く、しかも自分の発想を簡単に曲げたりしない粟津は、自分独自の考えを持っていた。
「いくら最新鋭の武器を装備して行っても、燃料が尽きてしまえば、ただのガラクタではないか。銃にしても弾丸がなくなってしまえば、ただの筒だし、動力で動く戦車や戦闘機にしても、燃料がなくなってしまえば補給などできるわけがない。その状態になってしまっては、歴史を変えることなどできないだろう」
小説の中ではそれでも歴史の舞台で何とか生き延びようと、自分たちの生活をその時代の生活に合わせていたが、実際に可能であろうか。慣れているその時代の人の生活に慣れるだけで必死で、戦国の世の中で、そう簡単に生き延びられるとは考えにくい。武器弾薬がなければ、彼らはただの兵隊に過ぎない。その時代に没するのがオチではないだろうか。
生まれてくる何百年も前に没してしまうなどという事実、普通考えれば考えられない。だが、歴史を変えてしまって、今の世の中が違う歴史を歩むことになってしまうだけのエネルギーに比べれば、数人で済んでいるのだから
「歴史の悪戯」
ということで片付けられる。
この世にワームホールなどというものが本当に存在するかどうかは、歴史というエネルギーを解明しない限り誰にも分からないだろう。そしてそれが解明できれば、人類にとって新しい歴史を刻むことができるかも知れない。
だが、逆もありうる。開けてはならない「パンドラの箱」を開けてしまうことになってしまうのかも知れない。あくまでも個人個人の発想であって、事実を確かめる術がないことから、それぞれの観点からの差はあるだろうが、似通っているに違いない。
歴史がエネルギーの賜物であるという考えは、中学の頃から持っていた粟津である。
歴史を勉強した時に最初に感じたのがエネルギーという観念であることから、歴史という教科は社会というよりも、むしろ科学に近いと思っている。
そこに人間一人一人が介して歴史を作り上げているので、社会科という発想なのだろうが、それよりも大きなところで歴史を司っているものがあるとすれば、やはりそれがエネルギーである。
ある意味、生き物と言えるかも知れない。ワームホールしかりで、時々起こる「歴史の悪戯」は、
「意志がそこに介入しているのではないか」
という考えが成り立っているのではないだろうか。
現在から過去を見る目が歴史であって、実際に生きている人は現在から未来を見ている。
その中に未来や過去が存在し、どの時点でそれを区切るかが大切であろう。今この一瞬が現在であって、現在は一瞬にして過去になる。
言い方を変えれば、未来だって一瞬だけ現在を通り越えるのだ。それは歴史が前を向いて動いているからであって、前を向いて動いているのが当たり前だと思っている考えを飛躍させることもできる。
――もし、後ろを向いて時間の軸を進めば――
こんな発想も出てくるだろう。こうなれば、もはや歴史という概念ではない。タイムパラドックスという言葉の総称とも言えるだろう。
夢を見るのも歴史上の人物になっていることが多かった。
しかも暗殺される人だったり、逆賊の汚名を着せられてしまった人だったりすることが多い。
暗殺された人、蘇我入鹿から始まって、幕末から明治にかけてが多く、坂本竜馬、大久保利通、伊藤博文と、歴史の背景を考えさせられる。
また、逆賊の汚名といえば、源義経、新撰組の近藤勇、それこそ殺されたからこそ人々の心に深い印象を与えた人たちばかりが気になっているからだろう。
殺される夢を見るのは、
「自分が生まれ変わりたいからだ」
という心理学的な学説があるようだが、粟津はそれを聞いて、
「なるほど」
と頷いた。
今の自分であれば、歴史に名前を残すようなことはない。いや、生まれ変わったとしても同じことだろう。
「それでは一層、時代が変わってしまえば」
と考えてしまう。過去の時代がどんなものであるか、実際に分かるわけではないが、思いを馳せるのは自由であって、その中で自分なら名前が残せるような時代があったに違いないと考えて、歴史の勉強を始めた。
もちろん、子供じみた発想である。だが、最初のきっかけはどうあれ、歴史に対して興味を持ち始めたのは事実であって、決して悪いことではない。気分転換にもなるし、本を読むことで有意義な時間の過ごし方になる。
美術館に行くのが好きだった粟津が、今度は博物館に足を運ぶようになる。同じような会場ではあるが、どこか雰囲気が違っている。
美術館に足を運ぶ人と博物館の客とでは、客層が完全に違っている。
何がどう違うかというと一般的に見ていると分からないが、美術館の客の方が、どうやら専門的な目で見ている人が多い。
自分も絵を描いていたり、絵を見て、バランスを考えていろいろな想像をしている人たちだ。博物館の展示を見ている人は、歴史に思いを馳せているのだろうが、その一つ一つを重点的に見るわけではなく、展示品の流れから、歴史や時代を想像しているのである。博物館での想像の方が、漠然としているのではないだろうか。
殺される夢を見るようになったのは、博物館に足を運ぶようになってからだった。博物館が美術館とは違う雰囲気であると感じたのは、最初に博物館に行ってからだった。
作品名:短編集112(過去作品) 作家名:森本晃次