誹謗中傷の真意
今から見れば、一日ごとの内容は、必ずどちらかのことであり、全体的に見ていると、やはりジキル博士の状態の方が断然多かった。それは喜ばしいことであったが、たまに出てくるハイド氏の自分は、実に恐ろしいことを書いていた。
それは、比較してみると、ネットに上がった内容とさほどの違いは見られない。だが、そのことを倉敷は知らない。自分のことを分かっている唯一の男であり、日記の内容も誰も知らないはずだと思って見ているので、頭の中では結び付くことではないのだった。だから、日記とネット記事の関連性を分かるものは誰もいない。
ハイド氏は、ジキル博士にとって、必要不可欠な人物である。ジキル博士が表に出られるのは裏にハイド氏がいるからだった。
これは当たり前のことであるが、ハイド氏を殺すとジキル博士も生きてはいない。それはハイド氏を物理的に抹殺するという意味でしかない。なぜなら、ハイド氏というのはジキル博士の、
「もう一人の自分」
であるということを他の誰も知っているはずがないからだった。
ハイド氏を殺すか生かすかの生殺与奪の権利は、ジキル博士が持っている。しかし、そのジキル博士への生殺与奪の権利は誰が持っているというのか、
「ただ、一つ言えることは、ハイド氏を作り出してしまったのは、ジキル博士である。博士にはそれなりの責任があるのだ」
という考え方からすれば、ジキル博士には自分を抹殺するだけの生殺与奪があると思える。
だが、それを決行するには、かなりの覚悟がいる。普通に自殺するよりも、却って大きな覚悟なのかも知れない。そう思うとハイド氏は急にジキル博士が持つことのできない覚悟を自分でもてるようになったきがしていた。
「俺がこの世からいなくなればいいんだ。俺を生んでくれたジキル博士には申し訳ないが、おれは自らの命を断つことにする」
という、殊勝な考え方をしたハイド氏がいた。
だが、そんな殊勝なハイド氏は、一度キリである。
しかも一瞬だけの感情なので、それを逃がすと永遠にハイド氏がこう思うことはない。
だが、ハイド氏の存在のピークはこの瞬間だった。人間でいう老化現象がこの頃から始まり、顕著に見えてくる。感情もまるくなっていき、次第にジキル博士と感覚的に教理を感じなくなる。
いずれはこのまま直線が交わることになるのだが、本当にそこまで行くのだろうか。またぐ寸前になって、ハイド氏はこの世から消えてなくなるような気がする。ジキル博士は思い余って自分を抹殺したが、いずれは、丸く収まっていたという考えを抱いたとしても、何ら不思議はないように思えた。
それもタイミングの問題であり。そもそもこの考え方のどこに信憑性があるというのか、よく分からないであろう。
倉敷はそんなことを考えながら、ジキルとハイドの話を自分の中に想像し、日記を書き続けた。
この日記は無意識に書くものではなく、日記ではあるが、そこにはハッキリとした意識が存在していた。意識というものがどういう存在なのか、倉敷には分かっているのだろうか。
倉敷が大学時代に書いていた日記は、自虐的なものが多かった。その内容は、どこまでが本当なのか分からないほど、曖昧に書かれていて、信憑性がどこまであるのかが、何とも言えなかった。
少なくとも時系列で見てしまうと、信憑性はまったくない。だが、逆に遡ると、少しずつ分かってくる気がした。
「何かが抜けている」
その抜けているものが何もないところからの時系列では分からないのだった。
時系列は加算法だとすると、現在から過去を遡る逆時系列では減算法になるのだろう。
減算法という言葉で思い浮かぶのは、将棋の駒の配置である。以前、将棋の話をテレビでしていたのを見たが、
「将棋で一番隙のない布陣は、最初に並べた形だ」
ということを聞いたことがあった。
「一手差すごとに、そこに隙が生まれる。だから、最初の布陣が完璧なんだ」
という話であるが、これこそ減算法だと言えるだろう。
そうなると逆時系列は完全に減算法で、将棋を指しているのと同じ理屈ではないだろうか。
日記で自虐的になるのも、過去にさかのぼっていく間に感じることが、自虐に見えているからであるが、今から数年前では自虐的なことを思い出すと、顔から火が出るほど自分を苛めたものだったが、今であれば、少々のことを言われても、あまり気にしないようになった。
自戒の念がなくなっていったというのは、悪いことなのだろうが、自戒の念に苛まれてしまうことがなくなったということで、トラウマになっていた意識を振り払うことができるという意味では、いいことなのだろうと思う。どうせ自戒の念をもって自分を苛めたのだとしても、苦しみからの逸脱のため、忘れることが一番だと気付くことになる。そうなると、忘れることが正義であるかのようになり、自戒が自分にとって悪いことだと感じるようになる。
これが自戒でなく、まわりから責められたことであっても同じである。トラウマになってしまうと、それ以外のことでも、想像以上に影響が強いものだ。一つのことにこだわりすぎてしまうと、自分ではなくなってしまうことが本当は一番いけないのではないだろうか。
自分にとって、人に苛まれるということは、
「気にしなければいいのだ」
という単純なものではなかった。
今会社の中で、自分にとっての「点滴」ともいえる上司がいる。
その人は、とにかく自分に対して否定的だ。最初こそ、何かを言われれば、自分の意見をいうだけの元気があったのだが。一度否定され、さらに否定され。その後、一度も肯定されなかったりすれば、もうまったく何も言えなくなってしまう。
「逆らったって、どうせ否定されるんだったら、何も言わない方がいい」
一言言って、十も返ってきたりすれば、目も当てられない。
そんな状態になると、何も言葉を発することができなくなる。同じような経験を大学く時代からつけている日記が日課になってきた頃の就職してすぐのことだった。
ちょうどネットで倉敷らしき人間への誹謗中傷が始まった頃でもあった。
相手は直属の上司で、自分が提出した資料に対しても、何かの回答を求められる内容の質問 であっても、一切、否定してくる。
「いや、違う。お前は間違っている」
の一点張りであった。
全否定されてしまうと、誰にだってトラウマはできる。その時に思い出すのは、本来であれば、過去にあった、
「苛められていた体験」
なのであろう。
しかし、苛めをしていたのは自分で、苛められていたわけではない。それなのに、小学生の頃に自分が苛めていたという事実に信憑性が感じられないほど、
「実は逆だったのではないか?」
と感じてしまうほどになっていた。
全否定されるということの恐ろしさがどれほどのものであるか、初めて知った気がした。小学生の頃、まわりを苛めていた時、苛められている相手に対し、確かに何を言おうがすべてを否定してきた気がした。
「相手のものは自分のもの。自分のものは自分のもの」
という高圧的な考えが、小学生の頃にはあったのだ。