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誹謗中傷の真意

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 相手は、こちらのことを意識もしていないのだから、理由がないとしても、納得がいくような気がした。
 だが、確か夢の中でのもう一人の自分はまったくの無表情だったのではあるましか。その意識のまま目が覚めて、ずっとその思いは脈々と意識の中で残っていくものだと思っている。
 その顔を思い出そうとするから、のっぺらぼうになってしまい、ないはずの表情の中に、見えない笑顔が浮かび上がってくるのだから、当然、恐ろしく気持ち悪いという感覚に陥ってしまうことになるのだろう。
 そんな夢を、いかに日記にしたためるか、それは本当に意識して書こうとすると書けるものではなかった。本当に見た夢を思い出そうとするのではなく、ただ、覚えている部分を書いているだけであり、後から見ても、
「あの時は、ここまでしか意識がなかったんだ」
 と感じることができるからだと思っていた。
 実際に思い出してみると、完全に思い出せたわけではなかった。
 それなのに、よく読んでみると、その時々で微妙に覚えている範囲が若干違っている。
 ということは、
「過去に書いた日記のいくつかを組み合わせていくと、自然と全貌が明らかになるのではないだろうか?」
 という考えに行き着いた。
 実際に読み込んで組み立てていくと、まだ読んでいない日記の部分の意識も思い出してこれたような気がする。
「どこかにキーポイントのようなものがあり、その部分を思い出すと、それまで忘れていた記憶の扉が開くのではないか?」
 と思うようになっていた。
 高校時代の日記は、受験勉強でのプレッシャーなどからの退避を考えたことで書くようになったものだったが、大学に入ってからの日記は若干違っていた。
 夢の中にいるもう一人の自分を書く日記ではなく、夢の中と現実の自分との比較を感じる夢であった、
「夢の中にでてくる自分は、まったく現実の自分とは違う自分である」
 というものであった。
 それだけに、夢の中の自分だけではなく、現実世界での自分を比較対象として描くことで、現実の自分がどのような自分として確立されていくべきなのかと考えるようになったのだ。
 その頃の倉敷は、自分が小学生の頃や中学時代、そんな少年だったのか、夢の世界と現実とで混乱していて分からなくなってきていた。小学生の頃のことはともかく、中学時代の意識ははっきりとしているものではない。いずれネットに上げられることが分かってでもいたかのような記憶だったのだが、この時も、ネットに上がってからも、その記憶が自分の中にあるものではなく、幻に近いものだったという意識があるのだ。
 しかも、高校時代の記憶は、ネットに挙げられた内容とはまったく違っていた。
 記憶にあるものは、自分が女を襲おうとして立ちはだかっているのに、相手は自分を誘っている。下手に抵抗してひどい目に遭うよりも、相手に好きなようにさせることが怪我がなくていいことではないかと思うのだった。それは自分が小学生の頃、苛めっ子だったことで、苛められっこに感じているイメージに似ていた。
「苛められている連中は、苛めっ子が飽きるまで我慢している。下手に抵抗すると相手が増長するのを分かっていて、しかも余計な抵抗をしてしまうと、却って苛めがひどくなるということを分かっているからに違いない」
 と感じていた。
 ネットに上がった倉敷と思しき男の所業については、まったく別のものであった。
「好きになった女性を、その人が誰かと付き合っているとしても、相手から略奪し、暴行を加え、さらに、暴行をしたのは、彼だとその女に思い込ませるような演出をした:
 という内容だった。
 よく考えればメチャクチャな内容だ。どうすれば、相手の彼氏にそのような濡れ衣を着せられるというのか、そのネットでは、略奪した女を睡眠薬で眠らせるというものだった。確かに睡眠薬を遣えば可能なのかも知れないが。そんな簡単なものであろうか? 誰が考えてもおかしなことは一目瞭然だった。
 そういう意味では、このネットの投稿者は、
「別にバレてもいい」
 と思っているのかも知れない。
 あまりにもリアルだったりすると、人を特定できたりしてしまい、何かの犯罪を形成しないとも限らない。
 人を誹謗中傷することで、自分がお縄になってしまうということは、本末転倒なことではないだろうか。
 バレることで、少しでもその心配がなければ、それはそれでいいことである。
 ただ、そうなると、
「この人は一体何がしたいのだろう?」
 という思いに至るのではないだろうか。
 人を誹謗中傷し、ネットに晒すことで、自分のためになるというのか、それとも誰か特定の相手に恨みでもあって、その恨みを果たしたい一心なのであろうか。この場合の特定の相手というのは、紛れもなく倉敷なのであろうが、倉敷にはそんな思いはまったくなかったのだ。
 やはり、高校生の頃の誹謗中傷には。
「とんでもない男パート3」
 と書かれていた。
 一体何がとんでもないというのか、確かに内容だけを読むととんでもない男である。しかし、その内容には一貫性に欠けたところがあり、
「とんでもない男」
 のシリーズで、この男が本当はどういう男なのか、最初から、パート3までを切り離して読んだとすれば、それぞれに感がいなものがあるが、同一人物ということを意識したとすれば、そこには一貫性がなく、
「これのどこが同一人物なのだ?」
 と感じさせるものが生まれてくることであろう。
 大学に入ってからの誹謗中傷はない。ネットに上がってからの誹謗が書かれていないということである。すべてが高校時代までの回想であり、それはまるでリアルさに欠ける想像でしかないものにしか思えなかった。
 中学の頃、友達から
「お前は二重人格だな。まるでジキルとハイドのようだ」
 と言われて、キョトンそしている倉敷に対して、
「お前知らないのか? 小説にあるだろう『ジキル博士とハイド氏』って、その話によく似た感覚さ」
 と言われたので、その時初めてジキルとハイドというものを知り、自分でも読んでみようと思うようになったのだ。
 ジキル博士とハイド氏の話は、完全な二重人格者の話だった。昼間は人格者であり、研究者でもあるジキル博士が、自分が開発した薬と飲むことでまったく違う怪人を夜の世界に創造した。それはハイド氏であった。
 ジキル博士は自分がハイド氏になってしまっていることを知らなかった。そのことを知って驚愕するのだが、その本を読んでいて、倉敷は違和感を抱いていた。
「自分で自分が分からないなんてあるのだろうか?」
 という思いだった。
 確かに倉敷も自分で自分のことを分からずに前後不覚に陥ってしまうことは結構ある。いや、結構どころの話ではないと思っていた。だが、後から思い出してくれば、自分のことなのに、自分のことが分かっていないというのはおかしいと思った。そして自分が前後不覚に陥った時の意識もどこかに残っていて、その思いが自分の中のどこかにへばりついているかのような気がしていた。
 それを日記に書くようになった。
作品名:誹謗中傷の真意 作家名:森本晃次