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誹謗中傷の真意

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 世の中には、探せば似たような逸話や伝説、神話やおとぎ話などたくさんある教訓が存在していることだろう。ことわざにだって、同じような意味の類似のことわざがいくつも存在している。
 たとえば、
「糠に釘」
 という言葉に対して、
「暖簾に腕押し」
 などという言葉もあるではないか。
 猿繋がりという意味では、
「猿も木から落ちる」
 という言葉には、
「河童の川流れ」
「上手の手から水が流れる」
「弘法も筆の誤り」
 などと、パッとおもい浮かべただけで、三つもあるではないか。
 きっとそれぞれに語源となったエピソードは違っているのだが、考えられる内容が同じで、その思いがそれぞれのことわざとなったのだろう。
 何しろ教訓なのだから、無数のエピソードの中では、いくらでも似たような言葉が出てくるのも無理もないことではないだろうか。
 そんな似たような話の中に、一つ気になる話がある。片方は、ギリシャ神話の逸話であり、もう一つは日本に伝わるおとぎ話である。この二つに関連性があるとは思えないが、人間というのが、まったく関係のない人であっても、発想は似たものであるというのも、無理なことではない。
 同じ時代であっても、全世界に何十億という人間が存在している。彼らにはすべて何かを考える力を持っていて、しかも、それを過去にさかのぼれば、今まで人類の歴史の中でどれだけの人間が孫座下のかなど、無限の発想だと言ってもいいだろう。
 そんな無限の人間が似たような発想をする人が出てくる可能性は、時代まで含めると、莫大に増えてくる。それこそ無限と言ってもいいかもしれない。
 無限というものは、何で割っても無限にしかならないのではないかと思うが、無限で割ると一に、ゼロで割ると、ゼロになるという発想以外のことである。
 気になっている言葉、エピソードというのは、
「パンドラの匣」
 という言葉と、
「玉手箱」
 という言葉であった。
 このどちらも、
「決して開けてはいけないものであり、これを開けてしまうと、悪いことが起こってしまう」
 という発想に結び付くことだった。
「パンドラの匣」というのは、古代ギリシャにおけるギリシャ神話という話の中に出てくるもので、話の内容としては、全農の神であるゼウスが、
「人間には決して、火を与えてはいけない」
 と言っていたことから始まる。
 その時、人間は火を手に入れておらず、夜は闇に包まれるという実に不自由で、危険な生活をしていた。
 そんな時、人間のことを好きになったプロメテウスが、ゼウスに黙って、火を人間に与えてしまった。人間の生活は楽にはなったが。そのせいで人間に欲が生まれ、争いや卑怯なことが人間の中で蔓延してくることになった。ゼウスはそれを恐れていたのだ。
 そしてプロメテウスには、死よりも恐ろしい懲罰を加え、そして人間界に災いを引き起こさせるために、一人の女を創造した。その女性は、神々からいろいろなものを贈られた。女としての武器のようなもの、女の嗜みなどである。
 彼女は、実は人間界での初めての女性だということになっている。
 彼女の名前は、
「パンドーラ」
 すべての贈り物という意味だそうだ、
 彼女をゼウスが人間界の、しかもプロメテウスの弟の元につかわせた・プロメテウスは自分の弟に、
「ゼウスからの贈り物は受け取るな」
 と言われていたにも関わらず受け取ってしまった。
 二人は結婚したのだが、その時パンドーラは、女神から一つの匣を託されていた。その箱は、
「決して開けてはいけない」
 と言われていたものであるが、彼女は好奇心からそれを開けてしまう。
 すると、そこからあらゆる災い、疫病、欠乏、争いなどが噴き出して、人間界に蔓延することになるのだが、その箱の最後にエルピスというものが残ったという。これにはいろいろな説があり、
「人間にとって最後の砦である希望が残った」
 という説もあれば、いつ吐き出された災いが起こるとも知れない状況を予知できないことから、
「悪いことの予知」
 として考えられているものもあるというのである。
 それがギリシャ神話における、
「パンドラの匣」
 の伝説である。
 このパンドラの伝説を、開けてはいけないものだという発想は知っていても、話の内容まではほとんどの人が知ることはないだろうが、日本の昔話である、
「玉手箱」
 というものの由来は、ほとんどの人が知っているであろう。
 そう、有名な浦島太郎の話に出てくる、あの「玉手箱」の話なのだ。
 そもそも、浦島太郎の話というと、最後のところを、
「辻褄が合わない」
 と感じている人は多いのではないだろうか。
 せっかくカメを助けてあげて、善行をしたにも関わらず、なぜ最後に玉手箱を開けて、おじいさんになってしまわなければいけなかったのか、
「いいことをしたのだから、報われるべきだ」
 という考え方である。
 しかし、実際には報われるどころか、
「白髪頭のおじいさんになってしまいました」
 というところで終わってしまっているではないか、これがおとぎ話の教訓だとすると、矛盾しているように思うし、終わり方も、十と半端な気がするのはなぜだろうか。
 実際には、浦島太郎の話はその続きがあるのだ。
 浦島太郎のことを好きになってしまった乙姫様は、その思いを遂げるために、地上に上がり、おじいさんになってしまった浦島太郎は鶴になり、乙姫様はカメになって。二人は永遠に睦まじく添い遂げたものとされるのが、本当の話のようである。
 なぜ本来ならハッピーエンドで終わらなければいけない恋愛物語である浦島太郎が、中途半端な悲劇のヒーローで終わってしまったのかというと、その経緯は明治政府の教科書作成の際に考察され、今のような話になったといが、やはりここでは、
「開けてはいけない」
 と言われた玉手箱を開けてしまったということへの戒めが強く、教育上での結末となったと言われている。
 ここでも、発想はパンドラの匣と同じ、開けてはいけないものを開けてしまうという発想であるが、これは、
「見てはいけないものを見た」
 という発想にも似ている。
 日本では、
「鶴の恩返し」
 などの話もあるが、聖書の世界でも、
「ソドムの村」
 の話のように、
「決して何があっても、振り向いてはいけないと言われ、後ろで一つの都市が一瞬にして破壊されている惨状を写し出すような衝撃的なことが起こっている。それをせっかく助けられた男が後ろを振り向いて石になってしまった」
 というお話である。
 要するに、すべては好奇心というものが人間の中にあるからで、これを作ったのも神のくせに、それを巧みに利用するというのは、何かがあった時に自分たちが手を下さなくても、自らで人間が滅びるような感じになることを想像しているからではないだろうか。
 そんな神話やおとぎ話の中で、人間が教訓としている部分も多いだろう。同じような時代で、似たような話だが、微妙というには、あまりにもかけ離れた神話が存在していることもある。それは、たとえば、ギリシャ神話と聖書であったり、ローマ神話であったりするものだ。
作品名:誹謗中傷の真意 作家名:森本晃次