誹謗中傷の真意
見学の後で、質疑応答などの時間も与えられるが、中には鋭い質問をする子供もいて、質問を受けた刑事がタジタジになることもあった。さすがに中学生くらいになると、どう答えていいのかに困ってしまう質問をしてくる少年も少なくはなかった。
そんな時、一人の少年がおかしな質問をしてきた。
「刑事さんはお金で繋がった人がいて、お金を与えている人がお金を貰っている相手を奴隷同然の扱いをしているとすれば、どう思いますか?」
という質問だった。
「ん? どういうことかな? それはお金で繋がった友達関係というか、お金だけの関係なのかは分からないけど、少なくともお金の授受があって、その見返りに奴隷同然の扱いを受けているということになるの・」
と、応報の人も、頭が混乱しているようだった。
「友達といえば友達なんだろうけど、お金だけで繋がっている関係だとすれば、もはやそれは友達関係ではなく、完全に奴隷とご主人様と言った、主従関係のことです。僕にも想像はできないんですが、世の中にはそんな関係の人だっていると思うんです」
とその少年は言い切った。
「返答には結構難しいと思える内容ですね。確かにそういう関係の人は存在しないとは言い切れないし、存在しているとして、一言でその関係って言い表せないと思う。もし複数、いや、想像以上にたくさんの人がお金だけで繋がった主従関係にあるとすれば、その数だけパターンが違うような気がするんだ。だから、そのパターンごとに話のサンプルがなければ、何とも言えないんじゃないかって思うんだよ」
と、刑事課の人間が答えた。
自分でもうまく逃げたと思ったが、そう答えたのは、辰巳刑事であった。
辰巳刑事は、K警察署の刑事課に勤務する、まだ二十代の若手刑事で、どちらかというと、正義感溢れる熱血漢。勧善懲悪をいつも頭に描いて仕事をしようと思っているという、まるで、
「刑事の鏡」
のような人であった。
少年の回答に我ながらうまく答えたと思っていたが、その考えは当たっているようで、質問者は、それ以上何も返してこなかった。
だが、
――まだ中学生だというのに、どうしてあのようなリアルで生々しいたとえ話のようなイメージが浮かんでくるのだろう?
と、自分の中学時代を思い出して、その違いに、背筋に一筋の汗が滲んで流れ出しているような気がして仕方がなかった。
「本当に最近の中学生は怖いな」
と感じさせられた。
そんな質問を受けた辰巳刑事は、その時はその程度の意識でその日の見学会は終わったのだが、その質問が頭の中から離れなくなりそうに感じたのは、一夜明けた、その日のことだった。
それがまさか何かの虫の知らせのようなことになろうとは、思ってもみなかったが、その事件が起こったのは、その日の日も暮れた夜のことだった。
事務処理も終わり、そろそろ署を出ようかと思ったその時、殺人事件の一報が入った。内容は、一人の男性が会社のトイレで死んでいるのが見つかったというのだ。ナイフで刺されているらしく、洋式トイレの扉が開いている状態から、そのままうつぶせになって倒れているということだった。
一報を聞いた辰巳刑事と清水刑事はさっそく現場に向かった。現場ではすでに駆けつけていた警官が縄張りを貼っていて、誰も中に入らせないように、縄張りの前に立っていた。近づくと、トイレの中で一瞬何かが光ったように見えたので、きっと鑑識も到着していて、捜査が始まっていることが分かった。
「ご苦労様です」
と馴染みの小野寺巡査に言われて、二人も敬礼した。
その時の表情はいかにも真面目そうに、背筋をピンと伸ばしていたが、捜査は最初が肝心、気を引き締める意味でも、表情が硬くなっているのも、仕方のないことであろう。
「中の様子は?」
と聞かれた小野寺巡査は、
「はい、先ほど鑑識が到着し、初動捜査が始まったところです」
「そうか、殺人事件には違いないんだろう?」
「ええ、被害者は胸を刺されて、前のめりで倒れています。今詳しいことは鑑識の方が調べています」
「第一発見者は?」
「応接室で待たせています。何しろいきなりだったので、私が到着した時は、まだ手の震えが止まらない感じでした。第一発見者はその人一人です」
さすがに、仕事場で同僚と一緒にトイレに行くということもないだろう。
あるとすれば、会議をしていて、全員一緒に休憩に入ったというタイミングくらいか、会議の時など休憩時間にはトイレに人が殺到するのは分かり切っていることであった。
「被害者の身元は分かっているんだろう?」
と聞くと、小野寺巡査は手帳を取り出して、メモっていた内容を読み始めた。
「ええ、被害者はこの会社の事業企画部に所属している倉敷統さん、三十歳だそうです。まだ若い社員ですが、倒れているところを見る限りでは、中年ではないかと思えたほどで、第一発見者の人も、すぐに誰なのか、想像もつかなかったようです」
「ということは、被害者と第一発見者は面識があるんだね?」
「ええ、部署は違っているようですが、仕事の関係で何度か話がしたことがあると言っていました」
「じゃあ、面識があるという程度で、特別に親しいというわけでもないのだね?」
「ええ、そういうことになります。少なくとも第一発見者の彼はそう話していました」
「このトイレには防犯カメラがあるんじゃないかな?」
「ええ、ですが、プライバシーの問題になるので、個室を映すようなカメラはありません。あるのは、あくまでも表の出入り口を映しているものだけになります」
「ということは、誰がやったのかの特定に至らないかも知れないわけだね。被害者が入ってから犯人が後から入ったのか、それとも最初からトイレに潜んでいたのかということもありえると考えると、防犯カメラの映像だけでは判断がつかない。参考にしかならないんじゃないだろうか」
と、辰巳刑事は言った。
「じゃあ、まずは、現状を見ることにしようか?」
と言って、清水刑事は辰巳刑事を促すようにしながら、縄張りを超えて、鑑識がせわしなく動き回る現場に入った。
最近工事でもしたのか、まだ壁も綺麗であった。何となく新築の匂いも残っているくらいなので、新装したとしても、ここ一月くらいのものではないだろうか。
そう思って中に入ると、せっかく綺麗なトイレを無惨にも汚しているかのような惨状が目の前に飛び込んできた。
被害者に罪はないのだが、汚い中での死体発見とは違って、余計に気持ち悪さを感じさせる。綺麗に光っている床には、半分乾いてしまった鮮血が、ドス黒さを増しているかのようにドロドロになっている。
そんな様子を見ていると、さすがに百戦錬磨の辰巳刑事も、どこか不気味さを感じさせられた。
「それにしても、どうしてここなのだろう?」
と考えてしまった辰巳刑事だった。
殺害現場で会社のトイレを選ぶというのは、最初から殺害の意志はなく、偶然殺してしまったというのであれば分からなくもないが、殺害にナイフを使っているということで、それはありえない。まさかナイフなど物騒なものを持ってトイレにいくというのも考えにくいからだ。