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誹謗中傷の真意

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 別に倉敷は父親を責めている気はない。自分がまわりを苛めるようになってから、もう父親の存在は自分の中にはなかった。苛めていたということも記憶から消去されていくように感じられ、黒歴史を葬り去る自分がそこにいるのだった。
 そんな父親に顔が似ている主任。そんな主任であれば、少々のことを言ったとしても、別に気にならない。
「俺は親父を克服したんだ。もうトラウマなんて存在しない」
 と感じていた。
 その主任は、相手かまわず攻撃する。そういう意味では個人攻撃とはいえ、一人だけが集中的に狙われているわけではないので、それほど恐れることはない。
 ただ、その人も、倉敷のことを全否定した。父親のその顔で全否定するのだ。それを感じた時、
「俺って、まわりの誰かに睨まれたり嫌われたりすると、基本、全否定されるタイプなんだろうか?」
 と感じさせられた。
 全否定というものが、どれほどのトラウマを呼ぶか、一番知っているのは自分だけだと思っていたが、本当にそうなのだろうか。
 一生のうちに何度も、しかも別の人間から同じような全否定をされると、さすがに、自分が普通の人間ではないのではないかと思えてくる。人によっては、
「俺は人と同じだと嫌なタイプなので、そっちの方がいいけどな」
 と嘯くような輩もいることだろう。
 しかし、倉敷はそこまで図太くできてはいない。
「どうしようもない男」
 というイメージが付きまとってはいるが、決して図ぼとく生きる方ではない。下手をすると、虚勢を張りたがるような、木の小さな男であった。
 それなのに、どうして、
「ほら吹き男」
 などのような異名を授かったりしたというのだろう。
 自分の中で、ひとかrあ全否定されると、人のいうことが信用できなくなる。それはもちろん、自分が信用できないからだ。自分のことを否定するようなやつのいうことは信用できないと思っているくせに、なぜ自分が信用できなくなるのか、まるでその男のいう通りになってしまうことが、自分にとって信用できない理由であった。
 要するに自分が何を考えているか分からないことが頭に混乱を招いて、必要以上に余計な心配をさせる相手に対しての苛立ちと、そんなやつのいうことを気にしなければそれでいいと思えない自分へのジレンマが渦巻いてしまうからだった。
 だが、倉敷という男、急に何かを思いついたり閃いたりすることがたまにあった。だから、自分のことを常識の塊りだというようなことを感じている男こそ、倉敷の考えていることが分からないのだ。
 相手のことが分からないと、その人を否定することでしか、自分を理解できない人はいないだろう。
 そう考えると、人生のうちに何度も、しかも別の人間から全否定される自分という存在は、そんな連中から見れば、さぞや異色に写るだろう。
 そもそも、
「他人と同じでは嫌だ」
 と、日頃から思っている倉敷なので、全否定という態度自体はありがたいのかも知れない。
 だが、さすがに開き直ったとしても、精神的には辛いものがある。開き直って、精神的に少しは楽になったとしても、それは一時的なものに思えてくる。
 開き直って一瞬、自分が苦しむ必要はないと感じ、楽しいことを思い浮かべると、急に我に返ってしまった時、またしても、憂鬱な自分が戻ってくる。どんなに開き直ろうとも何度も戻ってくる憂鬱さ、どうしたものだろうか。
 その元凶にいるのが、
「父親から受けた虐待」
 だった。
 中学時代、高校時代、大学生になってからすぐの頃まで、父親から受けた虐待を忘れていた。
 その分、自分が行った数々の悪行は、今でも記憶に残っているかのようだった。ただ、そんな内容だったのか、細かいところまでは覚えていない。ただ意識しているところとしては、
「父親の因果が子に報いというところではないか」
 ということであった。
 父親にされたことを他人にも味合わせるという感覚と、自分は知らないが、父親が本当にしていたことなのか、それとも妄想として抱いていたことが、自分を苛めることで、その思いをぶつけられ、いつの間にか、、自分の中でその落とし前をつけなければいけないことのように思えていたようだった。
 高校時代の女性に対しての暴行などの記憶、明らかに鮮明なのだが、なぜか警察に捕まったりも、警察が自分のところに赴いてくることもなかった。
 もし警察に尋問されていると、その辛さに耐えられる、やったかどうか分からない状態で、白状してしまったかも知れない。それほど記憶だけは鮮明なのであった。
 そんな自分しか知らないと思っているようなことを、どうしてネットで上がってしまったのだろう。会社の人は誰も知らないのか、それとも、
「そんなバカな」
 と言って、その記事を信用していないのか分からない。
 倉敷が、
「ほら吹き男」
 なる異名を取っているのも、もし、本当にウワサを信用しているのであれば、こんな中途半端な中傷はしないであろう。
「ほら吹き男」
 たる異名を取ったのは、自分の中に予知能力があるという思いがあり、それを誰かが立証してくれないかという思いからの苦肉の策だった。
 自分が感じる予知能力は、その頃は身近な人に起こりそうなことであり、どんなことが起こるのかは分かっているのだが、それが誰の身に降りかかってくるのかということが分からなかった。
「たまには、あいつのいうこと、俺の身に起こったよ」
 というやつはいたが、その的中率はかなり低いものだった、
 しかも、誰の身に起こることなのかが分からないということは致命的だった。
「誰なのか決められないんじゃ予知にも何にもなりはしない。ただ、起こりそうなことを言えば、そりゃ、そのうちに誰かの身に起こることだろうよ」
 と言われてしまえば、それまでだった。
 皆、その人の言う通りだとして、せっかく当たったのに、ウソつき、ほら吹き呼ばわりである。
「しょうがないか」
 とは思ったが、どうにも納得がいかない部分もあった。
 だが、
「ほら吹き男」
 と言われても、別に気にすることはない。倉敷としては、自分に予知能力のようなものが潜在しているということが分かっただけでも収穫だったからだ。
 たまに何か大きなことを言っては、その通りにならずに、結局形見の狭い思いをすることがあるようだが、その意識は倉敷にはなかった。自分でそれを口にしたという意識もないのだ。
 予知能力の部分。そして大きなことを言って的中しない部分、それらを掛け合わせてみれば、十分に倉敷は、
「ほら吹き」
 と言われても仕方のないことになるであろう。
 そういえば、子供の頃、自分を苛めていた父親も、
「ほら吹き」
 と言われていたような気がした。
 父親も、時々大きなことを言っては、的中もせずに、まわりから嘲笑われているのをよく見ていた。
「そんな親父に俺は虐待されているんだ。よほど俺って惨めじゃないか」
 と思い、自分が親から虐待されていることを、誰にも知られてはいけないと思った。
 知られてしまうことは、どんな屈辱よりもこれ以上の屈辱はありえないと思われた。自分が頭の上がらない人が、世間では惨めな姿をさらしているのだ。そんなことを許せるはずもない。
作品名:誹謗中傷の真意 作家名:森本晃次