短編集111(過去作品)
直之は別にアートが好きというわけではない。それまでに美術館に誘われて行ったことはあったが、あまり芸術を肌で感じることはなかった。むしろ美術館という雰囲気が好きで、その場にいるようなものだった。
「芸術って面白いものですよ。同じものを見ていても、皆違う感覚がある。一人として同じということはありえないんですよ」
「そんなものですか」
「それが個性なんですよね。遠くに見えたり近くに見えたり、遠近感を捕らえるのも芸術の基本ですし、色の濃さ、いわゆるグラデーションを感じるのも基礎なんですよ」
中学の頃の美術では最悪だった。絵を描いても、自分で何を描いているのか分からないようなものが出来上がってしまっていた。
――よく皆、綺麗に描けるよな――
と思ったもので、そういう作品は決まって少し離れたところから見てみたくなる。
そういえば画家の人がキャンバスを目の前に風景画を描く時、絵筆に指を当てて、片目を瞑り、遠近感を取っている光景をドラマなどで見かける。
「あれは本当の基本なんだよ。絵を描くためにはバランスが必要で、どこが何割を占めているかというのを理解してからでないと、描けるものではない」
その話を聞いた時に思い出したのが、ジグソーパズルであった。
いくつものピースから完成させるためにまずすることは、枠を作ってしまうことだ。角や、直線が一番分かりやすい。角を作ることから初めて、うちへと攻めていく。
一番難しいのが最後の詰めであることは言うまでもない。途中どこかで間違っていれば絶対に完成するはずがないのだ。ピースは絶対に余るはずはなく、失くさない限り、足らなくなることもない。
芸術とは違うが、一つのものを完成させるためには、それなりの法則がある。芸術も法則があるという。
我流でやっている人もいるが、基本的には先生について伝授されるものに違いない。だからこそ、芸術大学が存在するのだ。
「ある程度は、慣れでうまくなれるものだよ。描けば描くほど上達する。ただし、基本に忠実にですけどね。でも、本当に大変なのはそれからなんだ。人よりもさらに上に行くためには、生まれ持った感性だったり、才能がものを言う。努力でどこまで補えるかは、その人の才能とも言えるだろう」
マスターは芸術大学で、デザイナーを目指していたそうだ。
卒業してデザイナーになる勉強をしながら一般の会社で仕事をしていた時に知り合ったのが、今の奥さんで、彼女は美容師を目指していた。
会社が、美容関係の商社だったこともあって、営業先で知り合ったのだ。
実は同じ高校だったらしく、マスターの方が二年先輩だった。偶然がチャンスを呼ぶこともあるようで、お互いに話をしていて感性が合うことを知った。
脱サラして何かを始めたいという気持ちもあったことから、奥さんとの結婚を機に会社を辞め、雇われ店長ではあったが、自分の店を持つことができた。
実務やキリモリは奥さんの方でやり、企画や人脈に関することはマスターが行っている。実にうまくできている夫婦である。
「羨ましいですよね」
運もあったに違いない。時期的な運もあっただろうし、出会いにしても運である。話を聞いているだけで、自分にもそんな運が巡ってくるのではないかと思う直之だった。
店はマスターと奥さん、そしていつもカットしてくれる女の子と、見習いの男の子一人に女の子一人、本当にこじんまりとやっている美容室である。
この店は匂いが独特だった。美容室というと、独特な匂いがあるが、味に喩えると、喩えようがない。
柑橘系の匂いを感じたかと思うと、たまにバラのような甘い香りがしてくる。甘い香りの中から柑橘系の香りを感じることはあまりないので、不思議だった。
匂いに関しては、直之は子供の頃から意識が強かった。
甘い香りはあまり好きではない。母親がつけていた香水がいつもバラの香りだったからだ。
小学生の頃、参観日や父兄会といえば、必ずバラの香りの香水をつけていた。学校で友達のお母さんと話している姿を見ていると、いつも恥ずかしく感じていた。声が大きく、話し方が下品に見えたからである。
しかも内容が子供の自慢なのだから始末が悪い。聞かされている人の表情を見ていると複雑な表情に見えて仕方がない。子供心に、
――やめてくれよ――
と叫んでいたのを思い出す。そのたびに顔が真っ赤になっていた。
正反対の柑橘系の香りを意識し始めるようになったのは中学に入ってからだった。
中学で美術の先生が女の先生だったが、明るい性格だった。声のトーンが高くて、どこか講義にぎこちなさがあった。
「きっと人前で話すのが苦手なのかも知れないな」
「恥ずかしがり屋なんだよね。そういう人を見ると苛めたくなっちゃうよ」
と言っていた友達がいたが、実際に皆から授業中はなめられていた。
まともに授業を受けている生徒の方が少なかったに違いない。主要教科でもないし、一生懸命に聞く必要もないと考えたのだろう。恰好の息抜きの時間だった。
普段真面目な生徒ほど、飽きれていたに違いない。じれったさが顔に露骨に出ていた。中には授業に出ずに自習をしている生徒もいた。
真面目に授業を受けていた人の中で、どれほどの人が美術に興味があっただろう。仕方がないから授業を受けている人間か、先生に憧れていて、ただ見つめているだけでいいと感じている生徒もいたに違いない。
かくいう直之もその一人だった。
美術室の席は決まっていない。好きなところに座ってよかったのだが、直之を含めた数人が最前列に座り、仕方なく授業を受けている人たちは中途半端な位置に座っていた。あまり後ろだと下手に目立つと考えたのかも知れない。
先生から匂いを感じていたのは最初からだったが、その匂いを好きになったのは、しばらくしてからだ。先生を意識し始めたのも最初の頃、一体何が原因で匂いを意識し始めたのか、ハッキリとした理由は分かっていない。
夏の間の美術室はクーラーが効いていて、快適に過ごすことができる。他の教室も同じなのだが、美術室は絵の具だったり、その他の薬品を使ったものも多いので、匂いが篭る部屋でもあった。
重たい匂いを感じていた。味を感じるような匂いではないが、鼻を突くような過激な匂いでもない。
どこかくせになる匂いなのか、嫌いな匂ではなかった。若干シンナーの匂いもしていただろう。
しかし、先生からの柑橘系の匂いを感じるようになってから、美術室の匂いを感じなくなった。
確かに柑橘系の香りは匂いが強く、鼻を突くような匂いである。他の香りと混ざってしまえば一番強い印象を残すであろう。だが、所詮柑橘系の香りがしたとしても、それは先生の周囲からだけであって、美術室に沁み込んだ絵の具の匂いのように広範囲なものではない。
そのつもりで嗅いでいると、目を瞑って、声だけを感じることがあった。目を瞑ると集中できる。匂いに集中しようとしていたのか、それとも先生の声に集中しようとしていたのか分からないが、匂いに集中しようとすれば声に、声に集中しようとすれば匂いに気がいってしまった。
作品名:短編集111(過去作品) 作家名:森本晃次