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短編集111(過去作品)

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タバコ



                タバコ


 その店は「フォルテ」という名前だった。こじんまりとしたバーである。
 直之が、初めて立ち寄ったのは仕事で少しだけ残業し、帰りの時間が中途半端になった時間帯だった。一人暮らしの部屋に帰っても、テレビを見るには中途半端だと思ったのだ。
 学生時代にはそれなりに友達も多かったが、卒業後は皆散り散りバラバラになってしまった。
 アルコールが特に好きだというわけではないが、馴染みの店は持ちたいと思っていた。学生時代には馴染みの喫茶店があったが、最近はカフェが多く、喫茶店自体流行らなくなり、閉店していた。
 就職してから転勤もある。今は家から通えないところの赴任地なので、アパートでの一人暮らしをしている。
 もし、家から通えるところであっても、一人暮らしをしていたかも知れない。大学卒業まで家から通っていたが、一人暮らしをしてみたいという願望はずっと持っていた。
 父親が教師をしていて、古風な考え方を持っていた。今時の学生がよくあれで我慢できるなと思うほどで、母親も結婚するまでは教師、似た者夫婦だった。直之はなぜか、母親が苦手だった。口では勝てないと思えるほど、理解できることもできないことも、口からでまかせのように捲くし立てていた。
 それでも直之はまだよかった。彼には姉がいて、姉に対しての門限の厳しさと言ったらなかった。――あれでは彼氏なんてできやしないな――
 と思っていたが、それでも彼氏はしっかりいたようだ。よほど理解のある男性だったに違いない。
 だが、それでも長くは続かない。姉はそれでもじっと黙って辛抱していた。かなりストレスが溜まっていたであろうに、よく我慢していたものだ。
 それでも、短大を卒業すると、一人暮らしを始めた。理容師を目指して理容学校に通っていたのだが、腕はそこそこだったのだろう、見習いとして入った理容室で、生き生きと働いているのをガラス越しに見かけたものだった。
 直之も男性ながら理容室を使っていた。別にパーマを掛けたりするわけではないのだが、どうせ同じお金を払うのなら、女性に頭を触ってほしいと考えたのだ。
 男だから悪いというわけではないが、月に一度くらいの二時間程度を贅沢に使いたいと思うのも直之らしい考えだった。
 理容師になりたての若い連中は、仕事中は雑用が多く、仕事が終わってから、人形などで実習したりすることが多いという。
 見習いとはそんな毎日のようで、分かっていても辛いのではないだろうか。直之は、自分なら耐えられるだろうかと考えていたが、姉が頑張っているのを見ると、できそうにも思う。それだけ姉の表情は、それまでに見たこともないほど生き生きしていたのだ。
 就職して最初の赴任地になった場所に、ちょうど姉の働いている美容室があるのは偶然だろうか。
 だが、さすがに姉の店には行きにくい。今まで家にいて、なかなか話をすることのなかった姉と、表で、しかもお互い別々の人生を歩んでいる中で客として訪れるのは抵抗があった。恥ずかしいというのが本音である。
 姉にしてもどうだろう?
 もし、直之が客として訪れても、自分から姉だということは誰にも言わないように思えた。なるべく隠そうとするのではないかと思うのだ。そんなところにどんな顔でいけばいいというのだろう。直之が二の足を踏むのも当たり前というものである。
 直之にしても、自分がまだまだ新人で、仕事を覚えるのに必死の毎日、休みの日もなかなか余裕がなかった。
 幸いにも今は美容室はどこにでもある。綺麗でお洒落な店があると思えば、そのほとんどは美容室か理容室だと思っても間違いない。
 駅前にはたくさんの理容室があるが、直之はあまり駅前に寄りたいとは思わない。どちらかというと郊外に行くほどお洒落な店が多く感じられ、一軒家のような店を好んでいたのだ。
 アパートからも近いところにある美容室に、一月に一度顔を出す。そこは女性客が多いので、少し最初は抵抗もあった。今まで気にしたこともなかったはずなのに、気になり始めたということは、それだけ一人暮らしで感情が豊かになったのかも知れない。
 それは自分に対しての感情だった。
 考えごとは今も昔も変わらずに多い。だが、家にいる頃ほど狭い範囲での考えごとをすることはなくなった。家にいる頃、自分の考え方が狭い範囲であることなど想像もしたことがなかったが、一人暮らしを始めて、最初に感じたのは、自分の考えが漠然とし始めたことだった。
 漠然としたことを感じている自分が最初は嫌だった。
 つかみどころのない考えは、孤独に通じるものがある。あれだけ一人になりたかったにも関わらず、孤独を感じるなどということは認めたくない。
 だが、
――孤独が悪いことだという感覚が今までの自分の悪いところだったに違いない――
 と思うようになって、少し気が楽になった。
 家にいる頃はあれだけ毛嫌いしていた古風な親の考え方。古風なことというよりも、物事をすべて善悪で片付けてしまうように、割り切って考えていた自分がいた。だから、漠然とした考え方が頭に浮かんできた時、どうしても整理することのできない自分が分からなかったのだ。
 親への反動からであろうか。整理整頓が苦手で、理屈で片付けようとすることは得意なのだが、少しでも理屈に合わないことがあると、漠然とした考えだと思ってしまって、
――自分では手に負えない――
 と投げ出してしまう。
 それが家にいる頃からの反動であることに最初は気付かなかった。一人で暮らし始めて、漠然とした考えの中で、会社でも覚えなければいけないことが多い。さすがにパニックになったものだ。
 だが、考えようによっては、会社にいる時が一番精神が安定していた。必死になって覚えようとしている時、見えているものは狭い世界ではあったが、広く見つめていこうとする目を次第に養っていたからだ。
 美容室に通うようになったのは、自分の見つめている世界が狭い世界だったことに気付いて、それまでの悩みが何だったかと思うくらいに、考えが漠然としてきてからのことだった。考えが漠然としたわけではなく、気持ちに余裕が持てるようになったからであった。
 直之が立ち寄った美容室は比較的新しかった。元々喫茶店だったところを改装して美容室にしたようなので、こじんまりとしていた。
 最初にカットしてくれた女の子がいつもしてくれるようになったが、彼女はやっと一人でできるようになって張り切っていた。
 最初こそカットに一生懸命で話をする余裕もなかったが、すぐに打ち解けて話ができるようになった。妹が美容師だというと、
「そうなんですか? 会ってお話してみたいですよ」
 と声を弾ませていた。
 会社では仕事の話だけ、近くに知り合いがあるわけでもなく、世間話といえば、一月に一度の美容院くらいであった。
 それでも楽しい会話には違いない。店のマスターが趣味でアートデザイナーもやっていて、コンクールで入選したこともあるという。
 たった二時間で帰るのがもったいなくて、午前中にカットしてもらっても、昼過ぎまでマスターとデザインについて話をするのが恒例になっていた。
作品名:短編集111(過去作品) 作家名:森本晃次