短編集111(過去作品)
鬱状態というのは長続きするものではない。二週間ほどで元の精神状態に戻れることは分かっている。しかも、鬱状態に陥る前には精神的に前兆のようなものがある。二、三日ほどの前兆なのだが、終わってみれば、鬱状態の期間と、前兆の期間とが、同じくらいだったように思えてならなかった。
孤独を感じることで、欝状態から終わることがあった。孤独が嫌いなわけではないが、欝状態に陥る時は、まわりのものすべてが嫌になってしまう。
むしろまわりというよりも自分自身が嫌になるのだ。
人が楽しく話をしているのを見ると羨ましく感じるくせに、人が自分に話しかけられるのを想像することができなくなってしまう。逆に欝状態から抜ける時、一人でいても孤独を感じることはない。人との楽しい会話を思い出して、
――また、楽しい会話ができるんだ――
と自分に対して楽しさがよみがえってくるのだ。
欝状態を抜けた時でも孤独が嫌いというわけではない。一人でいる時ほど、自分の才能に気付くことがあると思っているが、人との会話では、自分の才能にさらなるエッセンスが加わる気がするのであった。
いつも自信過剰なところがある弘樹が、何の前触れもなく自信喪失に襲われるのが欝状態への入り口である。欝状態に入り込むと自分が分からなくなるが、記憶があやふやになってしまう弊害も含んでいた。
昨日のことだったのか、一昨日のことだったのかすら分からない。毎日を平凡に過ごしていて、同じことの繰り返しに気付いた時に我に返ることがあるが、まさしくそんな時であった。
――ひょっとして昨日を繰り返しているんじゃないだろうか――
などと感じることがあった。
毎日少しずつ違っているのは分かっている。成長期の学生時代、毎日が少しずつ成長していることも感じている。だが、ほとんど変化のない日を過ごすと、
――昨日を繰り返しているのではないか――
という疑念にとらわれてしまうのも無理もないことではないだろうか。
毎日同じ通学電車、同じ人たちを見ているように思える。
サラリーマンやOL、高校生など、毎日同じ人たちばかりに見えてしまう。実際にもそうなのかも知れないが、同じ服装をしていて、しかも自分と直接に関係のない人たちなので当然である。
人の顔を覚えるのが苦手で、しかも忘れっぽいとくれば、なかなか毎日の変化についていけないこともある。それが欝状態への入り口なのではないかと考えたりもしていた。
就職してから、いわゆる「五月病」にも掛かった。学生時代に時々陥っていた欝状態に似ていたが、学生時代には、
――そのうちに抜けるであろう――
という気持ちがあったのに対し、社会人になって最初の欝状態は、いつまで続くか分からないものであった。
孤独という感覚はなかった。寂しさがないと言えばウソになる。学生時代から嫌いではなかった孤独とが違う種類の寂しさである。
学生時代には、社会人になるに際して、大いに不安があった。どんなものか想像もつかないことほど言い知れぬ不安に苛まれるものであろう。
五月病は、そんな学生時代の不安から抜けるためのステップだったように思える。
社会人になって、最初は何も分からずにいきなり飛び込んだ世界に思えた。それなりに卒業に際して心構えを持っていたが、実際に見ると、自分の心構えとは少し違っている。
「君たちは、上司の命令には少々おかしなことがあったとしても、最初はしたがってもらわなければならない」
入社式の後に行われた研修会での総務部長の話だった。
釈然としない思いが頭を擡げた。今から思えば、それが会社という組織の指揮系統であり、指揮系統がしっかりしていなければ、うまく会社運営が行われないことは分かっている。しかし、最初に聞いた時は、上からの絶対命令という言葉に違和感を持ったとしても仕方がない。矛盾した考えは、最初に持っていた心構えを少しずつ揺るがすものになってきていた。
それが実際に爆発したのが五月病である。
学生時代のように自由ではないが、果てしない世界の中で、限られた狭い世界に入れられているように感じ、それでも無数の臨機応変に対応しなければならない重荷をいかにして発散させるかが難しいところであろう。
そのことに気付くまでには、さらに数年を要した。平社員から主任になり、次第に現場から、指揮を取る仕事へと変わってくる。
――自分がしている方が、よほど早くできるのに――
というジレンマに最初襲われたことはいうまでもない。だが、それこそが、最初に感じた会社としての指揮系統であるのだ。楽をしているように見えても、精神的にきつい。逆に命令される立場を分かっていなければできない仕事であった。
社会人になってから、一日の長さの違いが曖昧になってきた。
同じことをしているわけではないのに、毎日同じことの繰り返しのように思えてならない。
毎年、その傾向にある。平社員から主任へと昇格した時だけは、さすがに一日が長く感じられた。仕事への意気込みが自分の中で大きくなっているのが分かったからである。
一日があっという間に過ぎていた。
――一日が三十六時間あればいいのにな――
と思ったほどで、仕事をしていれば気がつけば日が暮れていたなどというのが毎日だった。
そのくせ、一週間になれば長い。昨日のことなのか、一昨日のことなのかが一番ハッキリしていたのはこの頃だった。忙しくて頭が回らないくらいになっているはずなのに、自分がしたことだけはしっかりと覚えている。精神的に余裕があるからに違いない。いくら忙しくともやりがいを持って仕事をしていれば、気持ちに余裕が持てるのだ。
仕事が一番楽しかった時期でもあったであろう。一日一日を一つの単位とはせず、常に前を向いていたので、一日が一つのメリハリになっていたに違いない。
その頃にも鬱病になる時期があった。
期間的には短いものだったが、さすがに普段がやりがいに満ちていただけに、精神的に辛かった。だが、
――すぐに元に戻るさ――
という思いが確信としてあったのも事実で、時を静かにやり過ごすこともできた。
そんな時期は仕事を他人事のように済ませていた。本当であればそんな中途半端なことではいけないのだろうが、それでもうまく回っていたのは、自分の後継者をしっかりと育てていたからであろう。その時の仕事の補佐をしてくれる人もしっかりと育成していたので、困ることもなかった。周りには悪いと思ったが、精神状態が不安定なまま仕事に勤しむよりもマシである。トラブルを起こさないことが先決であった。
だが、仕事も落ち着いてくると、また平凡な毎日が襲ってくる。鬱状態に入ることはなかったが、普段から余計なことを考えるようになってしまっていた。
「大久保さんは、いつも考えごとをしていますね」
後輩に言われてハッとしたものだ。
「分かるかい?」
「分かりますよ。どうですか、気晴らしに呑みにでも行きませんか?」
「いいね。たまには付き合うか」
作品名:短編集111(過去作品) 作家名:森本晃次