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短編集111(過去作品)

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 人と比較されることを極端に嫌うのは、子供の頃からの父親の影響がある。よく母親から父親と比較されて、嫌味に近いことを言われていた。
「あなたが言うことを聞かないのは、お父さんの血を引いているからよ」
 そんな言われ方だった。
――そんなの知るか――
 心で訴えても、聞こえるわけもなく、小さな身体いっぱいで無言の反発をしていた。今から思えば、母親も
――いいなりになる女性――
 だったのかも知れない。
 父親の気持ちを満たすだけで結婚する頃は満足だったのだろうが、どこかで気持ちが変わってしまったに違いない。
 自分に気がついたというのが一番の理由ではないだろうか。もし、キス板瞬間があったとすれば、子供ができた時、つまり塩崎自身の存在が、母親を考えさせたのだ。
 だからといって子供に当たるのはたまったものではない。
「お父さんは、勝手なことばかりして」
 と口癖のように言っていたが、勝手なようにさせてきた原因の一つは母親にもあるのだ。
 かといって母親を責めるわけにも行かない。子供に愚痴を零すことはあったが、父親の不満を一気に引き受けていたのは母親だったのだ。離婚して、母親の元で大きくなった塩崎だったが、今から思えば、その選択は間違いではなかっただろう。また、離婚を決心させたのも、塩崎の存在があったからだと信じて疑わない。
 男女が離婚するのが大変だということを、実際に体験はしていないが、母親を見ていれば分かった。精神的にどれほど辛いものなのかが分かったからだ。
――真剣に好きになると、ダメになった時の反動がきつい――
 と無意識にも感じるようになってしまっているに違いない。
 それでも里香と知り合って、里香に惹かれるところがあった。匂いだろうか、音楽だろうか、どこか里香と知り合って離れられない何かがあるのだ。
 その時の思い出が強く印象に残ってしまうのは、匂いも音楽も同じである。その匂いの中に鉄分を含んだような匂いがあった。あれこそ血の匂いではなかっただろうか。
 血の匂いはあまり気持ちのいいものではない。小さい頃に友達と遊んでいて、友達が大怪我をしたことがあったが、その時にあたり一面出血していた。幸い命に別状はなかったのだが、子供心に、
――真っ赤じゃないんだ――
 淀んだような紅い色、土や埃に塗れてしまうば、色が淀んでしまうのも仕方がないというもの、
――これが、俺たちの身体の中に流れているんだ――
 と思いながら、どこが他人と違って、どこが肉親は同じだというのか分からなかった。身体からある程度出てしまうと死んでしまうもので、これが子孫まで受け継がれていくものだと思うと、大切なものであることは分かる。匂いを嗅ぎながら、
――この匂いを嗅ぐのは初めてではない――
 と感じていた。
 今までにも何度も感じてきていて、しかも定期的に感じている匂いに思えて仕方がない。しかもとても懐かしい匂いに感じられる。しばらくは、それが何なのか分からない時期が続いた。
 家に帰っては、父親が酒を呑んでいる。酒の匂いが部屋の中に充満していて、近づきたくもない。いつ、父親の謂れのない逆鱗に触れるか分からないからだ。
 どうしてそんなものに怯えなければならないのか情けなくなる。自分が悪いことをして怒られるのであれば仕方がないのだが、どう考えても納得のいくものではない。とにかく怒らせることもなく黙ってその場をやり過ごすしかないのだ。
 離婚した父と母だったが、離婚がよかったのか、父親と対等に話ができるようになるなんて考えてもみなかった。
「俺も悪かったよな。あれからそれなりに反省したんだぞ」
 父親を尋ねると、いつもそう話していた。後悔してももう一度やり直せるわけではないが、却って距離がある方が気持ちも分かるというものである。
「お父さんも、若い頃は派手に遊んでいたからな。そのツケが今回ってきたのさ。お前はこんなお父さんみたいになるんじゃないぞ」
 心の中でいちいち頷きながら聞いていた。だが、得てして人間そんなものである。その時には分からなくとも、後になって気づくことがある。それを教えてくれたのも父親だった。反面教師とはまさに父親のことを言うに違いない。
 離婚してから、父親は女性と付き合ったことがないようだ。
 最初の頃は仕方がないにしても、もう一度人生をやり直そうと、出会いを求めたことがあったようだ。もちろんお酒もやめて、まるで母親と出会う前のような若い頃の気持ちに戻ったみたいに、
「でも、どうしてもダメなんだよな。一人になってしまうと、一人がいいんだ。どうしようもなく寂しくて仕方がないこともあるんだけど、結局は一人になってしまうんだよな」
「人生をやり直したいという気持ちが年とともに少なくなっていくんじゃないの?」
「そうかも知れないけど、忘れていた何かを思い出させてくれるものがないんだ。それだけ俺の人生って薄っぺらいものだったのかも知れないな」
 そんな父親を見ていて、情けないという思いはない。しょげてしまっているが、決して後ろ向きの人生には見えないからだ。
「俺の人生は前ばかりを見ている人生だったように思うんだ。確かに悪いところはたくさんあったかも知れないけど、一日一日少しずつ前に進んでいたんだよ。前しか見ていないかららそう感じるんだろうけど、何かを追い求めていたのは確かかも知れないな」
 アルコールの匂いが抜けてしまった父親からは、また違う匂いを感じる。その匂いもどこか懐かしさを感じるものだった。それが、子供の頃に見た大量出血で感じた血の匂いだったということに後になって気がついたが、ひょっとして、子供の頃に感じた
――この匂いを嗅ぐのは初めてではない――
 という感覚は、後で感じることになる父親の匂いを予感してのものだったようにも思えてくる。父親からはアルコールの匂いしかしてこなかったはずだ。だが、アルコールの匂いも、身体が吸収した匂いのはずなので、身体を流れる血の匂いが混ざっていたとしても当然である。
 アルコールの匂いは、消毒液の匂い、消毒液の匂いは、病院の匂い。
 病院の匂いは、嗅ぐと反射的に血の匂いを思い起こさせる。友達が運び込まれた病院でもアルコールと血の匂いが交じり合ったような匂いがしていた。手術室のランプがついて、消えるまでの時間、じっとしていた。友達のお父さんは、
「塩崎くんは、おうちに帰ってもいいんだよ」
 と気を遣ってくれたが、どうにもその場から離れられなかった。
 家に帰っても同じような匂いがするからである。
――友達の無事を見るまでは、自分を苛める気持ちは治まることはない――
 そんな気持ちが強かった。
 匂いの強さに差はあるが、里香を抱いている時にも感じる匂いだった。
 柑橘系の香りを強く感じる瞬間と、そうでない時は、血の匂いを強く感じる。鼻を突く匂いは、鉄分を含んでいて、それが血の匂いであることに気付くまで時間がかかった。
「私は塩崎さんが他人のような気がしないんですよ。とても似ているところがあって、きっと考えていることも同じじゃないかって思えるところがあるんです。だから素直にあなたに従いたくなるのかも知れませんね」
 ベッドの中でそう囁いた里香だったが、
作品名:短編集111(過去作品) 作家名:森本晃次