短編集111(過去作品)
小さい頃は父親が好きだった。ねだればどこにでも連れて行ってくれる雰囲気があったからだが、時々酒を呑んでは愚痴を零していた。一気に嫌いになったわけではなく、徐々に嫌いになっていったのだが、それだけになかなかもう一度好きになるということは難しい。結局数年前に亡くなるまで、父親を尊敬できることができず、今でも頼りない父親として、心の中に残っていた。
だが、それよりも、そんな父親の血を引いているということの方が余計に塩崎にとって辛い思いを残した。
塩崎も自分のことを聖人君子だとは思っていないが、どうしても自分に対しては贔屓目になってしまう。加算法ではなく、減算法で見てしまうのだ。
まずはすべてが百点から始まり、疑うことを知らない。少しぎこちなさを感じたら、そこから徐々に悪い部分を排除していって、自分というものを模索する。それが成長期に自分を見つめていた時の気持ちだった。
塩崎の成長期には、すでに父親は人間的に丸くなっていて、それほど酒を呑んでも愚痴が多くなることはなかった。それでもさすがにお酒だけはやめられなかったようで、早く亡くなったのもお酒が原因だったようだ。
「お酒を飲むのは俺の楽しみだからな。この年にもなれば自分の好きなように楽しめばいいんじゃないか」
潔い人生といえばそれまでだが、残された者のことを考えていなかったのは、
――結局、そこが寿命だったんだな――
という考えに至らしめた。
昔父親が零していた愚痴、まだ小学生で訳も分からなかった塩崎少年も、その言葉の意味が分かるようになるまで記憶の奥に封印していた。分かるようになったといっても、気持ちが分かるようになったわけではなく、愚痴を零したくなる心境が分かるようになったということである。言葉の本当の意味が分かるようになった時、自分もやり切れない気持ちになるということを、その時は分かっていなかった…・・・。
「俺は、いいなりになる女性じゃないとダメなんだ」
誰に対して言っていた言葉だったのだろう。その時は一人で酒を呑み、愚痴を零していただけだったのだが、明らかに誰かに訴えていた。自分に言い聞かせているのは分かっていたが、怖くて近寄れなかったが、その時の目が虚空を眺めていたように思えたからだ。
かなり傲慢な考え方である。子供でありながら、
――そんな考えはいけないことなんだ――
と思っていたのは、学校での教育の賜物であろう。協調性を重んじる考え方が育成されかけていた時だっただけに、少しショックだった。特に尊敬する父親の言葉とは思えないところがある。
もちろん、そんなことを口走ったなんて誰にも言わなかった。父親本人に対しても話をしていない。酔いが覚めるといつもの優しい父親に戻っている。きっと、愚痴を零した時のことなど忘れているに違いない。
子供心に、友達との間で、どうしても理解できないところがあるのは感じていた。
友達同士でワイワイ盛り上がるのは嫌いではないのだが、どこか虚しさがある。一人でいる時の方が自由でいろいろ考えることができると思っていた。
実際に小学生の頃が一番一人の時間で何かを考えていたかも知れない。一人でいる時間を実際の時間よりも一番長く感じることができたのが小学生の頃だった。
中学の途中くらいまでは、同じような感覚が続いていたが、女性に興味を持つようになってから、友達と一緒にいる時間が増えてきた。グループ意識に目覚めてきて、その中で感じたのが、
――彼らに彼女を自慢したい――
という感覚だった。純粋に女性を意識し始める感覚とは少しずれがあったかも知れないが、これも思春期に入った証拠に思えた。
それまでは大人の女性に憧れを持っていた。先生だったり、通学バスで一緒になる女子大生だったりしていた。それまで意識のなかった学生服に意識が行くようになってから、同級生の女の子も意識するようになった。
――学生服には魔力があるんだ――
清楚な雰囲気の中に淫靡な感じが潜んでいるのを感じるようになったのは、もっと後になってからのことだった。
学生服から香ってくる匂いに最初は柑橘系の香りを感じていた。それが何か鉄分を含んだような匂いに感じられるようになったのはいつからだっただろう。それから、学生服に対してのイメージが妖艶さを含んだものになり、父親が言っていた
「俺は、いいなりになる女性じゃないとダメなんだ」
という言葉をさらに意識させるようになっていったのだった。
学生服への憧れは、まだ大人の女性への憧れに気付く前だった。自分はいいなりになる女性というよりも、まずは真剣になれる女性が自分にとっての憧れだった。
外見ばかりを気にしていた高校時代、女性にも外見を求めてしまっていた。雰囲気から相手の性格を判断し、話をすることで、その気持ちを確かめている。女性を見る目はそこから始まった。
それは今でも変わっていない。確かに外見から判断する感情に左右されやすいが、最近ではそれだけではダメなことが分かってきたのだ。
里香という女性は、いいなりになるような雰囲気の女性ではない。尽くしてくれるタイプであるが、あくまでも立場は対等であった。
父親の話を思い出していると、相手がいいなりになる女性など、そう簡単に見つかるものではない。しかし、
「いるところにはいるんだよ。男性に尽くすことを生きがいにしているような女性が」
という話を聞いたことがある。
「相手に尽くしていると楽なんだよ。自分が何をしようとも、すべては相手の考えていること、それを忠実に守っていれば、自分が悪いわけではない。指示する方が悪いんだからね。俺も最初は尽くすことを生きがいにしている女性はそんな打算的な感情があるからだと思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。どこか性癖がそうさせるのだそうだ」
「そんな女性に出会ってみたいものだ」
冗談半分に話したが、まんざらでもなかった。そんな女性が本当にいるのなら、自分との相性を見てみたいという気持ちが次第に強くなっていった。
里香と知り合ってから、最初の頃はそんな気持ちは忘れていたが、里香と付き合っているという実感が湧いてくると、他の女性にも目が行くようになってしまった。実に皮肉なものだった。
「俺の彼女は、結構従順で、俺の言うことなら何でも聞くって感じの女性なんだ」
大学時代、仲の良かった友達が嘯いていたが、一緒にいるのを見ていると、まんざら大袈裟にも見えなかった。
友達はあまり目立つタイプの男性ではなく、どちらかというと清潔感のある好青年というタイプなのだが、彼女というのが、派手好きで化粧も濃く、どこかのスナックに勤めていそうな雰囲気を醸し出している女性だ。一緒にいて違和感がある。派手な彼女が友達にベッタリで、友達は表情一つ変えずに歩いている姿は、人目を引いてしまう。
だが、彼女も一人でいる時は、男性を寄せ付ける雰囲気をまったく感じさせない。そばに寄るだけで自分の劣等感を思い知らされるような気持ちにさせられそうだからである。
塩崎は、劣等感を感じる方であった。
作品名:短編集111(過去作品) 作家名:森本晃次