短編集111(過去作品)
せっかく意を決して通ってくるのだから、指名を蹴られることによっての最初からの落胆は、欲求の半分を失われたに等しいであろう。
それならば、最初から期待しておくこともなく、雰囲気を楽しみたい。そう思って店だけを限定するようになった。数名の女の子が在籍しているが、一通り一度は当たったことがあるのではないだろうか。
この店は女の子の定着率もいいらしい。店側が比較的女の子を優遇してくれるということだ。やはり経営者と従業員とのよい関係は、そのまま客へのサービスにも結びついてくる。それぞれやり方は違っても、女の子から感じられる誠意はありがたいものである。
お金を溜めるのはもちろん風俗に通うためだけではないが、目的を達成できた喜びは何であっても嬉しいものだ。欲求不満の解消の半分は、店に入る瞬間までに半分は完遂されたと言ってもいいかも知れない。
待合室ではタバコが置いてある。人気がある店の割りには、待合室で他の客と鉢合わせすることはあまりない。目の前に置いているタバコに手を伸ばしたい衝動に駆られることもあるが、決して火をつけることはない。
――これだけ明るいとね――
タバコが吸いたくないといえばウソになる。緊張して待っている時というのは喉がカラカラに渇いてくる、本当であれば飲み物で潤すのだろうが、タバコで緊張をほぐすというのも悪いことではないと思っている。
緊張している時に吸うタバコの味は、コルクのような味がする。
――最初にコーヒーをおいしいと感じた時と似ているな――
直之は、大学に入学するまで、コーヒーは嫌いだった。友達の中にも、
「コーヒーはだめなんだ。紅茶だったら好きなんだけどね」
紅茶派か、コーヒー派か、どちらかにハッキリと分かれていた。中にはどちらも好きだという人もいるが、同じくらい好きなので比較にならないという人は珍しかった。
高校時代までは、
――コーヒーは苦いばかりで、どこがおいしいと言うのだろう――
としか思えなかった。
匂いだけは嫌いではなかった。匂いにはどこか甘い雰囲気すら感じられたからで、そう思って飲むと、
「苦い」
と、思わず顔をしかめてしまっていた。
だが、大学時代に先輩に連れて行かれたコーヒー専門店とも言える喫茶店、嫌々ながら飲んでみると、味の濃さが何とも言えなかった。
「何かを焼いたような香りがしてきますね」
と先輩に聞いてみると、
「焙煎の効き目なんだろうね」
という答えが返ってきて、メニューを見るとさすがコーヒー専門店、コーヒー豆が焙煎の過程でどのように変わってくるかを解説していた。それを見ながら飲んでいると、どこか贅沢な雰囲気を感じることができ、味が芳醇に感じられる。
――これがコーヒーの魅力なんだ――
くせになりそうに感じたが、実際にそれからくせになっていった。
タバコも最初は同じだった。
コーヒーに感じた贅沢な雰囲気、そして芳醇な香りと味、
――くせになったらどうしよう――
と感じたが、さすがにタバコだけはくせになることはなかった。今はどこでも禁煙となっていて、喫煙者は迫害される運命にある。副流煙を考えれば当たり前のことなのだが、それならば最初から吸わなければいいと考える。
幸いにもまわりが冷めているものに対して興味を示さない性格であった。天邪鬼なところはあるのだが、それも自分で理解できないことに由来する。タバコに関しては、
「百害あって一利なし」
という言葉が示すとおり、自分の身体で理解できたのである。
その証拠にタバコも一本目は、
――これが吸いたかった味なんだ――
と感じることができるが、それ以降はまったく味が違って感じられる。それ以上吸わなければいいのだが、一本吸ってしまうと、口が寂しくなって仕方がない。何かを考えながらタバコを吸うことが多いので、やめようと感じるよりも無意識に二本目、三本目と進むことが多いのだ。それならば、よほど吸いたいというシチュエーションでもない限り吸わないようにすればいいのだった。
バー「フォルテ」で吸うタバコは、いつも一本だけだった。何かを考えながら吸っているのに。「フォルテ」の店内では二本目以降には手が伸びない。一本目を吸うとそこで満足できるのだ。
ここ以外で二本目以降に手を伸ばす時は本当に無意識で、どうして意識がないのか分からないが、きっと一本目の最後も、味が変わっているのではないかと感じることで理解できる。それだけ意識がないに違いない。
風俗での時間はあっという間である。終わって出てくる時にはまるでなかった時間に感じられるほどの別世界なのだ。
――だから、また行きたくなるのかな――
とも考えられるが、割り切れるところがいいのか悪いのか、しばらく風俗通いが続いた時期があった。
恋愛に対して、少し感覚が麻痺しているかも知れない。実際に女性と付き合ったこともなく風俗通いばかりをしている男性をまわりはどう思うだろう。自分だったら、
「汚らわしい」
と感じるかも知れない。事情も分からず雰囲気だけを想像するとどうしてもそうなってしまうのは仕方がない。
――自分はいつも一人なんだ――
と感じるが、不思議と孤独感はなかった。彼女がいなくて寂しいという思いはあるのだが、いないからといって寂しいというのとは少し違う。風俗の女の子との話は楽しいが、結局はその時だけの恋人気分、いい意味では一番気が楽と言えるのではないだろうか。そんな自分を見つめていて、意外と卑屈になることはない。
ある日、タバコを吸い終わってから景子の態度が一変した。その日は珍しくタバコを吸っている直之のそばに近寄ることがなく、少し離れたところで荒いものをしている。話しかけてくることもなく、会話のない重苦しい時間がすぎていった。
今まで吸っていたのとは違うタバコに火をつけていた。今までにないほどの紫の煙がカクテル光線に光っている。
――綺麗なものだ――
と感心しながら眺めていたが、その先に気配を消しているかのように寡黙な景子がいた。
孤独が似合う雰囲気のある景子に、余計な話はできない。じっと見つめていることはあっても、あまり会話になることはなかった。
普段であれば、食事をしてある程度酔いが回ってくれば満足して帰るのだが、その日はそれほど酔いが回ってくる気がしていない。
酔いが回ると鼻の通りがよくなる。いろいろな匂いを感じることができるのだが、たいていはいい匂いだけを感じる時の方が多い。今までであれば、柑橘系の香りを感じることで、清涼感を感じ、涼しい風を感じていたのだが、その日は、孤独を強く感じていた。
いつものように一本吸ったところで、すぐに吸うのをやめたが、今度は景子の様子が少し違ってきた。
――この表情は――
つい最近感じたことのある表情に思えた。
夢で見た表情であることは分かっていたが、その日が風俗の帰りだったのをハッキリと覚えている。
夢というのは、後になって考えればいつ見たのかを覚えていることは少ない。現実と夢の世界のリンクがハッキリとしないからだ。ハッキリとしていないからこそ、
――あれは夢だったんだ――
作品名:短編集111(過去作品) 作家名:森本晃次