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短編集111(過去作品)

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「芸術大学なんです。いずれは教師になりたいと思っているんですよ」
 というではないか。美術の先生を嫌が上にも思い出すというものだ。
 景子に自分の思い出を話して聞かせた。
「いい先生だったんですね。お話を伺っていて、何となく想像できるものがありますね」
 とはにかんだ笑顔を見せてくれるが、その表情が微妙に中学時代の先生を思い起こさせる。
 すでに十年以上も経っていて、顔もほとんど覚えていないが、景子を見るたびに思い出せる。だが、それも景子を見ている時間だけで、店を離れると記憶から消えてしまう。
 柑橘系の香りは景子が好んでしている香水からであり、店にいても、景子がいなければ先生を思い出すことはない。
 最初は景子自身に興味があるわけではなく、先生の面影、そして中学時代の自分に会うようなつもりで通っていた。目を瞑れば場所は中学時代の美術室、どんな会話をしていたかすら思い出せたものだ。
 景子は直之のそんな思いを知っているわけではないが、客が目を瞑り恍惚の表情で物思いに耽っているのを邪魔する気にはなれなかった。黙って自分の仕事をしていたのだ。
 景子は敢えて聞こうとはしなかった。直之も自分から敢えて話そうとするわけでもなく、直之に話す機会を失ってしまったことで、聞くきっかけもなくなってしまったに違いないだろう。
 バー「フォルテ」の部屋の調度は、暗すぎもなく明るすぎでもない。カクテルが一番綺麗に引き立つ明かりを模索して、このような調度になったのではないかと思うのは考えすぎであろうか。
 そんなことはない。明るさは雰囲気を一番作るうえで大切なものであることは、直之が最初に入ってきた時から感じていた。
 確かに入ってきてすぐと、しばらくいるのとでは目が慣れてきて、しばらくしてからの方が少しずつ明るく感じてくるに違いない。
 だが、それもその時の精神状態によるものだということを最近になって知った。
 少しネガティブに考えている時は、最初の暗さから次第に目が慣れてくるスピードが少し早く感じられる。逆にあまり何も考えていない時や、ポジティブに考えている時などは、それほど調度の違いに気付くことはない。最初に入った時に感じた暗さが焼きついてしまったかのようである。
 それだけ一番の調度だという意識があるのだろう。あまり何も考えていない時や、ポジティブに物事を考えられる時は、敢えて変化をもたせたくないという気持ちが無意識に働いているに違いない。
 バーともなればある程度密室である。奥の厨房への入り口はあるが、窓も閉まっていて、密室であることが自分だけの世界を作り出したくて店に入ってくる客への配慮なのであろう。
 実際に直之もその方が嬉しかった。表がどんな状態であっても、中でカクテルを味わいながら自分の世界に入れることが一番の醍醐味だと思っていたからである。
 バー「フォルテ」にやってくる時の心境とは一体どんなものなのだろう。
 他の人は分からないが、直之はストレスを抱えたまま、この店に入ってくることを嫌っている。
――せっかくゆっくり呑みにくるのだから、精神的に余裕がある時がいい――
 だから店を訪れる時は、ネガティブになっていない時ばかりだった。ネガティブな精神状態で来たことがないわけではないが、調度の具合を感じると、ネガティブな時は来てはいけないとまで思うようになっていた。
 調度を気にするのは匂いを気にしているからかも知れない。
 柑橘系の香りをさらに感じるには密室であるこの店は恰好であった。しかもさらに感じるには、嗅覚を研ぎ澄ませる必要がある。他の五感に気を散らすこともなく感じるには、ちょうど薄暗いくらいの視界であった方が匂いを感じることができる。たとえ目を瞑っていたとしても、少しくらいの明るさでは、瞼の裏が赤く感じられる。さらに紅く感じたその上に、無数のクモの巣が張ったような線が残像として残っているのが見えて、そのまま嗅覚を感じる障害になってしまうだろう。
――目を開けていても瞑っていても、あまり変わらない調度――
 それを求めていたに違いない。
 柑橘系の香りを感じると、タバコが吸いたくなる。タバコを吸わずに、バー「フォルテ」で柑橘系の香りを感じていても、昔を思い出すには至らないのだが、タバコを吸うことで、中学時代を思い出すことができるからだ。
 紫に見える煙を見ながら、柑橘系の香りを感じていると、まるで催眠術に掛かったかのように記憶が中学時代に戻っている。
 だが、いつまでも中学時代の思い出に浸っているわけではなく、すぐに覚めてしまう。タバコの効力が薄れてくるのか、柑橘系の香りに慣れてくるのか、何かが違ってくるのだ。思い出すためには、それぞれのバランスが大切なようだった。
 柑橘系の香りと言っても、種類がいろいろあるようだ。景子がつけている香水は、少しきつめに感じる。時々、目に沁みるのを感じることがあるが、そんな時に、涙が自然と溢れてくるのを感じていた。
 涙というと、あくびをする時に自然と出てくるくらいであるが、それとも少し違っている。バー「フォルテ」の店内は完全な密室のはずなのに、時々風が吹いているのではないかと感じるが、その証拠が目に沁みる香水であった。
 最初から風が吹いていると分かっていれば、本能的に瞼を守ろうと意識して、眼球の上の濡れ方が変わってくるはずである。意識がないからこそ、目が沁みる感覚に襲われるのであって、それが柑橘系をきついものにしているのではないだろうか。
 風が吹いていると感じるもう一つの理由であるが、紫煙が暗闇の中を上っていく時、色が少しずつ変化して感じられるのだ。
 まさにカクテルのようなカラフルさを感じる。調度がそのイメージを醸し出しているのである。
 タバコを吸いながらカクテルを呑むと、思ったよりも酔いのまわりが早いようだ。タバコは一本吸ってから後は吸わないのだが、吸い終わると、今度はタバコの匂いすら嫌になってくる。
 自分が吸ったタバコにしてもそうである。わがままなのだが、
「この灰皿、下げてくれないか?」
 と目の前に灰があることすら不快になってしまうのだ。
 軽い自己嫌悪に陥る。タバコは嫌いなはずなのに、一瞬の誘惑に負けて吸ってしまったと思うからだ。
 誘惑に負けたとすれば、誘発したのは柑橘系の香りである。淫靡な雰囲気を感じるわけではないのに、不思議だった。
 軽い自己嫌悪は、淫靡な中での気だるさに似ている。
 今までに彼女がいた経験のない直之は、男の欲求を風俗で補ってきた。給料に余裕もなく、学生時代には細々としていたバイトで稼いだお金をつぎ込んでいたため、それほど頻繁に通っていたわけではない。
 最初の頃は風俗雑誌を買って、記事によって店を決めていたが、そのうちに自分の好みや、金銭的な都合と欲求のバランスが分かってきて、次第に通う店が限定されてくる。
 相手をしてもらう女の子を指名することはあまりなかったのは、その店が結構人気があって、指名する相手を最初から決めてしまうと、
「今日はあいにく空いておりません」
 と受付で断られる公算が強い。
作品名:短編集111(過去作品) 作家名:森本晃次