短編集111(過去作品)
タバコや酒は二十歳になってからというのも、少し危ない感じがしていたに相違ない。
「子供のくせに」
「子供は知らなくてもいいの」
と大人は子供に言い聞かせるが、
――大人の世界って、そんなに汚いものなのか――
という思いを抱かせるだけのことである。
タバコは、匂いを毎日のように父親のそばで嗅いでいれば、いい匂いに感じていたのは癖になっていたからかも知れない。父親がタバコを吸わなくなって、表を歩いている人が咥えタバコなどをしていれば、匂いを感じただけでイライラしてくる。
最近はマナーが行き届いてきたのか、法律が整備されつつあるのか、ほとんど人に迷惑を掛けるような喫煙を見かけない。それだけにあからさまに目立つようなタバコの吸い方をしている人を見ると、苛立ちを覚えるのだった。
そんな直之だったが、タバコを口にしたことがないわけではない。事実、考え事をしている時に。無性に吸いたくなる。
最初に口にしたのは、冗談からだった。
タバコを吸い込んで咽たのをまわりの人に笑われて、ムキになって吸い込んだのが、酒の席だった。
――何とも情けない――
まるで子供ではないかと自分を戒めてみたが、気がつけばタバコをどうしても吸いたくなる時ができてしまっていた。
――生理的なことかも知れないな――
タバコを吸っていれば確かに落ち着いた気分になれる。しかしそれは最悪の精神状態から少しでも逃れたい時の特効薬でしかない。
特効薬というのは、即効性があるが、根本的な治療にはならない。実際には、漢方薬のように、じっくりと治していくのがいいのだろうが、即効性で、しかもくせになるものだと、なかなかやめることができない。絶えず吸っていないと我慢できないわけではないのが、せめてもの救いであった。
それでも、社会人になって、タバコの量はかなり減った。大学時代の方が明らかにタバコの量は多かった。
――それだけ漠然とした悩みが多かったということだろう――
風に揺れながら上っていく煙を見ながら考えたものだ。
真っ暗な中で白い煙が上がっていくのを見ていると、紫色に見えてくるから不思議だ。「紫煙」とはよく言ったものである。白い部分と黒い部分が斑に見えている。目を凝らしてみれば分かるのだが、漠然と見ていれば、どこか紫に見えてくるのだ。「紫煙」という言葉の由来、ハッキリとは分からないが、人によって考え方も違うのかも知れない。
社会人になって初めて寄ったバー、それが「フォルテ」だった。
それまで居酒屋に寄ったことはあるが、それも同僚と一緒に寄っただけで、一人で入ったことはなかった。
居酒屋に一人で行こうとは思わない。表を歩いていると、焼き鳥や焼き魚の匂いが充満していて、たまらなくなることもあるが、中なら聞こえる笑い声を聞くと、入ることを躊躇わせる。
人見知りをする直之は、一人で入ってもずっと一人で呑んでいる光景しか思い浮かばない。会社の同僚と一緒に呑んでいると、ついつい愚痴っぽくなってしまい、すぐに酔いがまわってくる直之は饒舌になっていて、最初こそ、自分の喋っている感じを客観的に見ることができるのだが、すぐに分からなくなってしまうのは、アルコールに酔っているというよりも、むしろ自分に酔っているからなのかも知れない。
だが、大学時代から馴染みの店を持っていた直之は、一人で入れる店を模索していた。大学時代に馴染みとしていた喫茶店はこじんまりとした店で、少しレトロな雰囲気があるだけに、決して若い人たちが好んでくるような店ではなかった。
大学のまわりには、それでなくともたくさん気の利いた喫茶店がいっぱいある。それぞれに個性があり、白を基調とした明るい雰囲気に特徴があり、ケーキがおいしいことで有名だった店、黒を基調にしたシックな雰囲気を醸し出している店は、濃い焙煎が印象的で、店内には絶えずクラシックが流れていて、しかもCDを持ち込むと掛けてくれるというサービスが特徴の店があったりと、趣味趣向によって、客層もそれなりに固まっていることで、いつも繁盛していた。
直之は、どちらの店も好きだった。一人で立ち寄ることができるのは、自分が大学生だという意識があるからなのと、明るい店は早朝から開いていて、モーニングサービスを利用しているのと、クラシックに造詣の深い直之にとって、CD持ち込みができる店は、まさに恰好の趣味を奏でることのできる空間に相違なかった。
だが、それらとは違った雰囲気が馴染みの喫茶店にはあった。別にケーキがおいしいわけではない。クラシックを落ち着いて聴くことができるわけでもない。最初は店の前を通っても、喫茶店があるという意識すらなかったほど、気に掛けてもいなかった。
なぜその店に入ろうという気になったかというと、あまり褒められたきっかけではなかった。
店に入っていく一人の女の子を見かけたのがきっかけだったのである。後姿しか見えなかったが、ローズ色のシャツに白いスカートという出で立ちが気になったのだ。
髪型はストレートで肩くらいまであるのだが、大学生にしては地味だと思ったが、ローズ色のシャツがどうしても気になったのだ。
女性の後姿を気にすることはそれまでにも何度かあった。
後姿フェチといえば、少し淫靡な感じを受けるが、決してプロポーションを気にしているわけではない。グラマーな感じの女性や、モデルのようなスリムな女性に目が行きがちだが、むしろ直之には幼児体型か、あるいは、三十歳代に近い体型の女性の方が気になってしまう。
――前から見ればどんな感じなんだろう――
という思いを抱かせるからだ。
その時の女性には幼児体型を感じた。小柄で髪型に流行を感じないオーソドックスなものだったが、そこが気になってしまったのだ。
直之はミーハーと言われることを嫌っていた。誰もが好きになるような女性には興味はなく、大人しくて一人ポツンといるような女性が気になる方だった。
「お前の好みはすぐに分かるさ。人が好きになりそうではない地味な女性を見つければいいんだからな。だからありがたいのさ、競争相手にはならないからな。感謝していると言ってもいいくらいさ」
皮肉たっぷりに言われたものだ。
だが、今から考えると、それも自分の性格から来るものだった。すぐにあきらめてしまう性格の直之は、
――競争してもダメに決まっている。それなら最初から競争率の低い相手を探した方が無難だ――
と感じているのかも知れない。だが、それだけの理由で自分の好みの女性が決まるものだろうか? 直之は何度も自分に問いただしていた。
自分が好きになる女性は、皆独特な笑顔を持っている。他の人はまったく違う笑顔に見えるかも知れないが。直之にとっては、自分への最高の笑顔は皆同じものに見えて仕方がない。その笑顔を見たくて、人を好きになると言っても過言ではないだろう。
バー「フォルテ」に寄るとタバコが吸いたくなる。バーの中の匂いはいつも柑橘系の香りを感じさせ、まるで中学時代の美術の先生を思わせた。
その店には景子という女の子がアルバイトをしていたが、彼女は大学生だということだった。
「どこの大学に通っているの?」
と聞くと、
作品名:短編集111(過去作品) 作家名:森本晃次