ウラバンナ(青春紀ー1)
昨年の盆踊りは引っ越したばかりの渡辺夫人と盆踊りに行ったが、夫人の甘い香を今でも密かに記憶していた。
「もういい加減に渡辺夫人は止めてくれよ、第一、夫人に失礼だろう。今になってカトレヤに冷たくあしらわれた連中の嘆きが分かったよ」
今まで彼女に振られた先輩たちの落胆ぶりを見てきたが、カトレヤは噂通りに異性交際にはガードが堅かった。
「何よ、そのカトレヤって……、冷酷な悪女のように聴こえるけど、わたしのこと? だったら、それって事実を脚色していない?」
確かに、男子がカトレヤに勝手に憧れて失恋しただけの自作自演であって、彼女が冷たくあしらったわけではなかった。
「初恋は独りで夢見ている間は幸せだけど……。カトレヤにヒイラギのような棘があるって知らなかったよ……、どうせ駄目なら無駄にドキドキさせないで欲しいよ……」
これまでカトレヤを思い浮かべて寝床で悶々とすることもあったが、思いが叶わないのであれば早目にとどめを射して欲しかった。
「勝手にドキドキしておいて今度はヒイラギの棘? 暴言は絶対に許さないから! 純情そうな顔をしてるけど、去年の盆踊りは姉と行ったくせに……君が早熟なことは知っているよ」
カトレヤは私の不貞腐れた態度に駄目を押すように言ったが、やはり昨夏の盆踊りのことは夫人から聞いて知っていた。
「そんなに冷たくするなよ……。夫人はオフクロの言いつけで案内したんだ……。今は俺の意思だよ。盆踊りに行くだけならいいだろう」
この機会を逃せばカトレヤに接近できない焦りもあり、強引に軟派まがいのことを口にした。
「困った人ね、どうしてもカトレヤと盆踊りに行きたいのね。だったら、私の魅力を素直に認めなさいよ」
彼女は自らカトレヤの綽名を名乗って、勝ち誇ったように屈服を要求してきた。
「カトレヤの魅力はずっと前から認めているよ……、だから、盆踊りに一緒に行ってくれよ、お願いします……」
カトレヤにいいようにあしらわれて癪だったが、男の面子よりもデートの約束を取り付けることの方が優先だった。
「馬鹿ね、男はこんなことで頭を下げないで……。そこまで言うのなら盆踊りは一緒に行ってあげてもいいわよ……」
勿体ぶった返事ではあったが、あのガードの固いカトレヤが盆踊り行きを了承してくれただけでも大きな前進であった。
「えっ、本当? 俺のことばかり言うけど、先輩も二股は駄目だぞ……。彼氏との約束はどうする?」
「馬鹿ね、彼氏って言った覚えはないわよ……。小母ちゃんから浴衣を頂いた時に君に案内させるって言われていたの……」
そうであれば、初めから拗らせずに素直に応じてくれればよかったのだが、柊が母親と面識があったことも初耳だった。
「何だ、今まで俺をからかっていたのか、いい加減にしてくれよ……。だけど先輩は高三になってもまだ彼氏が出来ないのか?」
それは下心のある私にとってチャンスだったが、カトレヤの卓球一途の青春に異性が入り込む余地がなかったのかもしれなかった。
「何、その小馬鹿にしたような言い方は……。言っておくけど、出来ないのではなくて、つくらないの! そういう高二の君は?」
カトレヤはむきになって言葉を返してきたが、当時の高校生の男女交際はごく一部のことであった。
「えっ、俺は心に決めた女性がいるから……、それにバイトが忙しくて、そんな暇はないよ……」
中学の部活でカトレヤに一目惚れして以来、他の女子は眼中になくカトレヤ一筋の青春だった。
「ねえ、さっきから秋津先輩とか、カトレヤとか適当に言い回しているけど、もう少し私を丁寧な代名詞で呼んでくれない?」
柊にしてみれば高校生活最後の夏休みだから、盆の間だけでも彼氏感のある呼ばれ方をされたかったのであろう……。
「じゃあ“柊さん”ってどう?」
秋津柊を誰もカトレヤと呼んでいたが、私だけはもっと親し気な代名詞で呼びたかった。”柊さん”は使い古されたカトレヤよりも独占感があった。
「年上感のある先輩よりも無難かな……」
長年思い続けてきたカトレヤだけに、この呼び方を許されたことは取り巻きの群れから一歩抜け出た優越感があった。
「秋津先輩が初めての彼女だし、盆踊りは最初のデートだから楽しみだよ……」
「こら、先輩って言うな、“柊さん”でしょう。今度言ったら返事しないから。それに、いつの間にか君の彼女になっているけど、盆の間だけだからね」
柊は高校生活最後の想い出作りのために、多少のことは大目にみる気持ちになったようであった。
「あくまでもお試しだから、盆が明ければ友達に戻るのよ。それだけは約束して欲しいの、いい?」
これで渡辺家にいる間はお試し彼女でいることを認めさせた。彼女にしても夏休みとはいえ盆が明ければ卓球の合宿が待っていた。
補導事件
八月十四日の朝、カトレヤが我が家の敷地内で眠っているだけで気持ちが昂り、軒下の蜘蛛の巣払いも苦にならなかった。長い笹竹での高所作業は顔も汚れて意外に重労働だった。
朝の日課を終えて井戸水で顔を洗っていると、アランドロンの“太陽がいっぱい”がギターの旋律と共に流れてきた。
「孝ちゃん、おはよう。ご苦労様!」
カトレヤに名前で呼ばれただけで、これまでの取り巻き集団から一歩抜け出たような気がした。
「秋津先輩、ここは国道筋だから眠れた?」
秋津家は長閑な田園の中にあったが、我が家は国道の沿線にあり朝早くから路線バスやトラックの音で騒々しかった。
「…………」
「秋津先輩! どうかした?」
「何回言えばわかるの。昨日も言ったでしょう……、先輩って呼んだら返事しないって……」
親戚以外の女性を愛称で呼ぶのは初めてのことであり、いざとなると照れくささが先に立っていた。
「あっそうか! 柊さん、だった」
「用事が終わったら朝顔の長椅子でレコード聴かない?」
こういう何気ない約束も、相手がカトレヤだと特別のワクワク感があったが、これも渡辺夫人のお陰であった。
裏庭から、私の恋心を誘うようにドイツ空軍の撃墜王を描いた洋楽が聴こえた。私は洋楽の中でもこの感傷的なボレロが特に好きだった。
「“アフリカの星のボレロ”だろう……。柊さんがこの曲を知っていたとは驚きだよ」
高校の放送室に洋楽のLP盤があり、この中にお気に入りのボレロが収録されていたので何度も聴いていた。
「孝ちゃんはどういう映画が好きなの?」
当時は校則でほとんどの成人映画が禁止されていた。柊は渡辺夫人と映画の封切りを隣街まで観に行っていたので、外国映画に精通していた。
「俺は専らレコードを聴くぐらいだよ。洋楽なら禁じられた遊びやブーベの恋人も好きだし、それにアメリカ映画の慕情も……」
西部劇よりも哀愁とか感傷的な洋楽が好きだった。
「ふーん、家にステレオがあるので、池澤君の家に行った帰りにでも聴きに寄ったら、レコード集めているよ……。洋楽が好きなら無許可映画も観たことがあるでしょう?」
私は一学期末テストが終わった後に、友人と映画館に入場した直後に先生に補導されていた。連れの友人は素直に帰ったが、私は癪だから観させてくれと抵抗したことを彼女に話した。
作品名:ウラバンナ(青春紀ー1) 作家名:田中よしみ