ウラバンナ(青春紀ー1)
隣近所は祖父母の代からの長い付き合いの土着民であり、遠くの親戚よりも私の家の内情をよく知っていた。
部落は隣近所で十軒の括りで班に分割されていたが、班は回覧板だけでなく各家庭の弔事や地域行事なども共助の因習が色濃く残っていた。例えば班の中でご不幸があれば各家庭は夫婦で勤めを休んで、お寺の手配やお斎(とき)の支度、香典の受付や葬儀一切の会計報告までの全てを代行していた。
そういう因習の中では家庭内の個人情報が近所に筒抜けになり、それが日常生活に陰に陽に影響していたことも事実であった。
カトレヤ降臨
離れ家には新婚の渡辺夫妻が住んでいたが、主人は歯科医として遠距離の北九州の医院に勤務していた。渡辺夫人はお産を控えており、産褥期が過ぎれば年内に北九州に引っ越す予定になっていた。
このため、力仕事や電球取替などは母の言いつけで私が代行していた。
「留守中はお世話になりました。この西瓜、オフクロからです」
夫人は大きなお腹を抱えていたが、朝顔の陰の長椅子で涼をとりながら留守居をしてくれていた。
「お帰りなさい、お母さんによろしく言ってね。シーちゃん、ちょっと出て来なさい……」
渡辺夫人は二人姉妹の所為か、日頃から何かとイガグリ頭の私を可愛がってくれていたが、出し抜けに離れ家に呼びかけた。
「矢納君、お久しぶり」
母親から託った西瓜を渡辺家まで抱えて行くと、誰もいないはずの離れ家から女性の声がした。
「えっ、えぇ! カトレヤ?」
初恋人の思わぬ登場に驚きの声をあげた。カトレヤは中学時代の一年先輩の秋津柊(あきつしゅう)の愛称である。三年振りの突然の再会にキツネにつままれたような気分だった。
「何よ! 亡霊を見たような顔をして、姉から聞いていなかったの? お産が
近いから盆の間、家事の手伝いに来たの」
渡辺夫人からは何も聞いていなかったが、夫人が離れ家に引っ越して来た時にどこか見覚えのある顔だと記憶していた。
「そうか、それで渡辺夫人を最初に見た時に誰かに似ていると思ったのか……」
今になってそれが秋津柊であることに初めて気づいていた。
「一人で納得して……、どういうこと?」
「いや、夫人を最初に見た時に誰かに似ていると思ったけど思い出せなくて……、まさか先輩が妹だとは気づかなかったよ……」
こうして二人を見比べれば、色白やヘーゼルの瞳もよく似ており、今まで気付かなかったことの方が不思議であった。渡辺夫人は二人のやり取りを見届けると離れ家に戻って行った。
これ程近い距離で彼女に接したのは中学の部活の遠征以来のことだった。盆だからカトレヤが祖霊と一緒に高嶺から降臨してきたのだと非科学的なことを頭に浮かべていた。まさか、渡辺夫人が私の片思いを知って、わざわざ妹を呼び寄せていたとは思いもしなかった。
久し振りに見るカトレヤは。隣町の私立の女子高に通学しているだけあって地元の女子高生よりも垢抜けていた。中学時代のお下げ髪も洒落たワンレンボブのショートヘアにカットしていた。
「さっき渡辺夫人って言っていたけど、どうして夫人を付けるの?」
カトレヤの姉に大人びた敬語を使ったので、妹にすれば違和感があったのかもしれなかった。
「それは、近所に渡辺という家がもう一軒あるから。我が家では離れ家の渡辺さんには夫人を付けて区別しているだけだよ」
私は照れ隠しもあってぞんざいな口の利き方をしたが、渡辺夫人は近所でも評判の美貌で気品と優しさを兼ね備えていた。現に、頑固者の権化のような父でさえも、渡辺夫人の前では妙に聞き分けがよかった。
「だったら、わたしも秋津先輩ではなく“秋津婦人”って呼んでくれない?」
私服姿のカトレヤは渡辺夫人のように大人の魅力を湛えており、眩しくてまともに目を合わせられなかった。
「そ、それはおかしいだろう! 秋津先輩はまだ高校生だし、それに……」
「それに、何よ?」
「渡辺夫人には大人の魅力があるから……」
私は気持ちとは裏腹に、何故か高三の柊に大人の女性を認めたくなかった。
それは初恋人への照れ隠しなのか、それともイガグリ頭の自分に相応しくないと思ったのかもしれなかった。
「わたしには大人の魅力がないというの?」
柊は不満気な顔で抗議してきた。
「そうは言っていないよ、秋津先輩の美貌は誰もが認めているけど、幾ら何でも今の先輩に”婦人”は相応しくないだろう……」
渡辺夫人からは大人の女性の匂いに惹きつけられたが、母にはない女性の甘い匂いだった。
「わたしだって化粧すれば姉のようになれるわよ。何よ、姉のことばっかり……。矢納君はまだ女性の魅力が分からないのよ」
確かに柊の匂いは夫人とは微妙に違った甘さがあったが、渡辺夫人に対抗心を燃やして私を見下すような言い方をしてきた。
彼女の矛先をかわすように部活のことに話題を変えていた。
「ところで、卓球、頑張っているみたいだね。秋津先輩は我々の誇りだよ」
カトレヤは全国大会の個人戦でベスト8に入っており、東京の女子大への推薦入学も内定しているようであった。
「全国大会で優勝するにはまだまだ頑張らないとね……。矢納君は卓球を止めて勉強一筋なの?」
私は授業料の安い国立大学を目指して学業に比重を置いていたが、父親の病気で大学進学が危ぶまれていた。
「親父が病気になったから、夏休みは部活よりもバイトが優先だよ」
当時は一般家庭に電気冷蔵庫が普及していなかったので、夏は箱型のボックスに固形の氷を入れたものが冷蔵庫になっていた。4貫目の氷のブロックを4等分に鋸で切って1貫目のブロックを各家庭に配達するバイトだった。朝六時から夕方六時まで汗みどろになって働いたが、時には客からは氷が解けて小さいと苦情を言われることもあった。
それでもバイト代は一日三百円にしかならなかったが、秋の東京方面の修学旅行の貴重な財源になった。
「アルバイトも大変ね……。これまで勉強を頑張ってきたのだから、奨学金制度もあるし、都会に行けば働きながら大学に行けるわよ……」
高度経済成長といっても経済的理由で高校に進学できない者も多くいたので、高校に進学できただけでも親に感謝しなければならなかった。
ナンパ
渡辺夫人が年内に北九州に引っ越せば、秋津柊との関係を後押ししてくれる後ろ盾を失うことになった。その上に来春に柊が上京してしまえば、カトレヤとのか細い縁も霧消することになった。
「十五日は夕方から部落の盆踊りがあるけど、先輩も行かない?」
私にすれば夫人がいなくなっても、秋津柊との関係をこの盆の間に確かなものにしたい下心があった。
「折角のお誘いだけど、盆踊りは一緒に行く人を決めているの……。私よりも大人の魅力の渡辺夫人を誘ったら?」
カトレヤは明らかに私の前言を根にもって意固地になっていた。
「えっ! 幾ら何でも渡辺夫人と行くのはおかしいだろう。お腹も大きいし……。その先輩の相手って一体誰だよ?」
高三のカトレヤに彼氏がいない方が不自然であったが、その男のことを聞かずにはおれなかった。
「えぇ、そんなプライベートを君に返事しないといけないの? 盆踊りの相手なら私が渡辺夫人に取り次いであげるから……」
カトレヤは笑みを湛えた眼で嫌味を繰り返した
作品名:ウラバンナ(青春紀ー1) 作家名:田中よしみ