自殺を誘発する無為
が形作られていて、彼らの中での上下関係は従属関係としての封建制を育むことで、一つの組織を形成しているのであった。
さらに彼らの考え方で、他の宗教との大きな違いは、
「我々教団社会の中で起こることのすべての責任は神にある」
というものである。
これは、一見、人間の罪を神が被ってくれるという意味ではない。俗世間の人であれば、そう考えて、
「何ていい世界なんだ」
と思うことであろう。
しかし、神を絶対の侵攻の対象として崇める組織の中では、神を汚すことは決して許されない。つまり、神に責任を押し付けることは大罪であって、神は許しても、まわりは絶対に許さないということである。
それだけ大きなプレッシャーを抱えていて、自由というものが、本当は一番苦しみを与える根源であることを思い知らされるのであった。
例えば、小説家やマンガ家が、出版社と原稿wの契約をしていて、編集者から、どういう内容のものを書くか、テーマを与えられるのが普通である。
しかし、時々、
「どんな内容でもいいから、とにかく面白いものを」
という完全に作家の自由に書かせてくれる場合があるが、これは自由だから簡単そうに思えるが、
「何をやっても自由であるというkとおは、逆に失敗は許されない。妥協は一切通用せず、言い訳も許されないのだ」
これこそ、大きなプレッシャーである。
編集者の方も同じプレッシャーを感じていることだろう。作家はそれも分かっているから、自分に全責任があると理解している。逃げることはできないのだ。
そんな状態に陥ると、失敗できないプレッシャーを人間が感じた時、えてして失敗してしまうのも人間なのだ。
だから、この世界では、二度目までの失敗は許される。三度目に成功すれば、神の失敗という結果も消えてしまうからだ。
だが、三度目も失敗を繰り返すと、もう目も当てられない。この世界での自分をどう正当化するか、それが大きな問題となってくるのだった。
「果たして、どちらがいいのだろう?」
俗世間の人たちが、世の中の常識から宗教団体の本心を知ってしまうと、決して彼らの世界に入り込むことを拒むだろう。
「やっぱり、いいようなことを言っておいて、結局は人間を縛るんだ」
と考えるに違いない。
しかし、一旦教団に入ってしまうと、もう俗世間に戻ることはできない。
自分たちが神の加護によって守られているという意識があるから、神に対してのプレッシャーは当たり前だと思うのだ。どうして彼らが俗世間から逃れてきたのかというと、
「自分にとって一番怖いのは、やはり人間なんだ」
と考えるからである。
人間との間に、神という存在があることで、それが一つのクッションになって、自分を助けてくれていると思っているのが、教団での考え方だった。
人間社会よりも、厳しいところもあるが、やはり神から受ける加護は大切なものである。そのことをゆめゆめ忘れないことが、教団で生きることの意義だと言えるだろう。
では、人間社会という俗世間で生きる意味を、果たして皆考えたことがあるだろうか?
「誰かのために生きる?」
そんなことはあり得ないと思う。
それが家族であったとしても、一体家族というのは何なのだろう?
「血の繋がり?」
人間は血の繋がりを異常に気にするが、考えてみれば、近親相姦などはタブーとされている。しかし、神話の世界では、近親相姦が行われた神もいるではないか。
「神であれば、近親相姦は許されるというのか?」
宗教団体での近親相姦は完全な罪であった。
そもそも、この教団には、
「血の繋がり」
などという概念はない。
極端な話、教団に入ってしまうと、自分の血の繋がった相手は、自分の子供以外にはあり得ないのだ。
この教団は、一般信者の中で、複数の団体に別れている。それを決めるのは、幹部であったが、同じ団体に、肉親が入ることは許されなかった。同じ教団であっても、団体が違えば、まったく違う世界。話をすることくらいは自由であるが、あくまでも戒律は団体単位にもたれている。しかも、肉親同士は会話することも許されない。
「俗世間においての、肉親であったり、血の繋がりなどという考えは。この世界ではありません。皆が他人、そして皆が肉親なのです。血の繋がりよりも考え方。確かに昔の人は血の繋がりで、考え方が似ていたり、最後に問題を解決するのが血の繋がりだった時代もありましたが、時代は進みすぎています。すでにたくさんの血の繋がりがネズミ算的に増えていって、その分、血の濃さというのが、まるで水のように薄くなってしまったに違いありません。したがって。ここでは血の繋がりなどというのは、優恵美無実です。皆さんにも忘れていただきたい。そんなものを意識するから、甘えが生じたり、逆に考えが平行線をたどっても、どうして考えが相いれないのかということに疑問を抱くだけで、苦しむことになるのです。もう、皆さんはそんな世界から逸脱して、こちらに来られたんです。我々のことを信じて、ともに生きることを前向きに考えてまいりましょう」
というのが、教団の考え方だったのだ。
規則的な三段階
この教団は比較的新しい、新興宗教であったが、当然、俗世間から見れば胡散臭いところであり、比較的、
「風通しがよくて、自由な風潮だ」
と言われてきたが、中を覗こうと近寄ってくると、近寄れば近寄るほど、厚いベールに包まれているようで、最初から、欺瞞の匂いがするというのが、世間一般の俗世間的なこの団体に対しての偏見のようなものだった。
だが、確かにそれを感じているのは一人ではなく、ただ、それを皆が漢字ながらも、そのことを誰も他人に確認したことはない。
確認することが怖いというわけではなさそうなのに、どこか不思議な感覚だ。
K市の山間にある本部には、数百人が暮らしている。数百人がいる割には、居住地区はそれほど広いというわけではなく、団地のような建物に、同じ団体の人が、一部屋二人、あるいは三人による共同生活を営んでいた。
教団組織の所有している敷地には、居住区だけではなく、大きな農園も広がっていた。そこは教団の大切な自給自足のための農地であった。教団に所属する信者は、一日のうちの数時間を、この農園で過ごす。農園は団体単位でもたれていて、団体が決めたルールで畑は運営されている。
一見して不当だと分かる以外のことは、教団から認められていて。そのルールが今まで幹部の中で問題になったことはない。この教団に駆け込んでくる人は、俗世間で理不尽な仕打ちを受けてくる人が多いのだが、彼らは共通して、まわりの嫉妬からの理不尽な仕打ちを受けていた。
彼らの素質が本物であればあるほど、煙たがられるというのは、俗世間ではよくあること。もちろん、そこで全体的な底上げがなっているのだとすれば、絶対的な否定はできないのだが、下手をすれば、それが俗世間では、
「当たり前のことであり、そこについてこれないのは、その人が劣っているからだ」
というレッテルを貼ることになるだろう。
居住区と農地を合わせると、それなりの広さを確保することができる。元々のK市との契約の中で交わされた。