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自殺を誘発する無為

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 これは教祖にとっても団体にしても、大英断だったに違いない。下手をすれば存続の危機だったのだろうが、それも、彼らからすると事前に大丈夫だという根拠が持てるほど、下調べをした上での決断だったのだろう。そうでなければ、いきなりのこの言動は常軌を逸していたと言ってもいい。
 だが、実際に宗教団体を抜けるものは、数人しかいなかった。抜けた人間がどうなったかというと、もちろん、家に帰ることもできない。一人で自立しようにも、履歴書も掛けず、紹介者もいない。飛込で言って雇ってくれるはずもなく、万が一、人手不足のところに紛れ込めたとしても、宗教団体の中の自給自足とはまったく違ったやり方では、即戦力として雇った方の思惑についていけるはずもない。
 すぐに、お払い箱になって、また路傍を彷徨うことになる。
 同じように脱退した連中も同じことだ。それを教団は幹部が彼らを隠しカメラに収めていた。
 そして、それらをプロパガンダ映像にして信者に見せようというのだ。
「ここを出て行って、下野に下ったとしても、結局は何もできずに、そのまま行けばのたれ死ぬだけだ」
 という意味の映像である。
 もっとも、こんなものを見せなくても、残った連中は、最初からここでの自給自足が自分に遭っていると思っている。そもそも、俗世間が嫌でここに駆け込んできたのではないか。世間の人の目が、そう簡単に変わるはずがないということは、自分が一番分かっているはずだった。
 プロパガンダ映像は、それなりにショッキングなものではあったが、ここにいる連中の想定内であった。
「あいつらは、こんなことも分からずに出て行ったんだな。一体何がしたかったのだろう?」
 としか思えなかった。
 確かにここにいるからと言って、何かの野望が果たせるわけではない。自分には野望を持つ気持ちなどないというのは、ほとんどの連中の考えだ。
 しかし、人が増えてくれば増えるほど、いろいろな考えの人が増えてきて、中には野望という感情を思い出す人もいるだろう。
 世間で挫折した人の中には、元々会社社長だったり、世間では成功者と言われていた人だったりもいる。そんな人たちは成りあがった人もいるだろう。頂点を頂くことはできても、それを維持するだけの能力に欠けていたことで、奈落の底に落ちた人もいる。
「俺にはもう欲望や野望なんて残っていない」
 という思いを胸に、この団体に駆け込んできたのだ。
 そんな、
「人生の敗北者」
 でも、ここでは平等に扱ってくれる。それがありがたかった。
 しかし、本当に野望などなくなってしまったのだろうか? 今までの人生の大半を、
「野望を抱くことが自分の人生の生きがいだ」
 と思っていたとすれば、精神的に落ち着いてくれば、忘れていたものを思い出すことだってあるかも知れない。
 この団体から表に出ていった人の中には。そういう人が多かったのではないだろうか。
 だが、中には、本当に社会に溶け込み、これまでの宗教団体を忘れてしまったかのように社会に適合している人もいた。
 彼が元々社会適合能力があったのかは不明だが、少なくとも、教団にいたことで、適合能力が育まれたのかも知れない。
 あるいは、元々順応性に掛けては、誰にも引けを取らないことが才能であり、その才能を忘れていただけなのかも知れない。
 そんな人も中にはいるが、本当に一人か二人の世界だろう。
 教団にとって、そんな連中は、もうどうでもいいことであった。
「別に出ていきたいのであれば、止めはしない」
 と言って、退会を自由にしたのだが、その言葉に嘘はなかった。
 彼らとしても、出て行きたいという気持ちで燻っている連中が分からず、そのまま中途半端な状態で参加されていては、却って邪魔だと思っていた。
「浄化」
 という意味では、実にいい方法でもあったのだ。
 教団に残った連中の大部分は、最初から俗世間には興味がなかった。ここに来たことで生きがいを思い出し、自分が人間であることを初めて知った。この団体の人は、誰も自分を特別だとは思っていない。逆に自分たちがまともで、俗世間が狂っていると思っている。
 考えてみれば、俗世間の世界を見ているとどうだというのだ。いついかなる時でも、世界を見渡せば、どこかで戦争をしている。殺し合いをしているではないか。
 国によっては、腐った政府のために国民が苦しめられ、一部の特権階級の連中だけが暴利を貪り、大部分の国民は。光すら手に入れるのに困っている。そんな状態を見ていると、俗世間のどこに幸せがあるというのだろうか。
 野望を持ったとしても、それが果たされるのは、一部の決められた人間だけ、それは世襲であったり、人を人とも思わないほどの人情などの欠片もない連中だけではないだろうか。
 少しでも情けを掛けると、自分の方がやり込められてしまう。戸惑ってしまうと、相手に先を越されてしまい、先に進めなくなってしまう。
 そんな状態を考えていると、教団にいることがどれほど楽なのかが分かるのだ。
 何が苦しいと言って、
「負のスパイラル」
 に入り込むことが辛いのだ。
 どんなに頑張っても抜け出せない。
 しかもそのために使う力は、普段の数倍になるのだ。相手があることなので仕方がないが、教団にいる限り、誰かと競争するということはない。しいて言えば、見えないもう一人の自分との闘いだと思っていい。
 だが、もう一人の自分と言っても、自分は自分なのだ。お同じ力であることも、どんな力を持っているかということも一番よく分かっている。
 俗世間にいる間は分からなかった。
「自分のことなので、一番自分がよく分かっていると思ったけど、そうではない。一番自分のことを自分が分からないのだ。それは鏡のような媒体に自分を写さない限り、自分の姿を見れないことと同じである。つまり生の自分を見ることなどできるはずはないのである」
 という考え方だった。
 しかし、教団にいると、その自分を見ることができるのだ。
「もう一人の自分に自分がなって、本当の自分を見ている」
 という感じである。
 それこそ、夢を見ているような感覚だと言えるのではないだろうか。
 俗世間に帰るなどという発想はここにいれば普通では考えられない。考える必要がないのだ。
 そのことを思い知らせようというのも、教団幹部の考えだった。
 いくら力で縛っても、力に屈してきた連中には通用しない。それであれば、
「いかに納得させるか」
 ということが重要である。
 幹部の考えはまんまと図に乗ったようだった。
 前述の教団の考え方としての、
「失敗は二度までは許されるが、三度目は許されない」
 というのは、
「一度目は、神の失敗であり、二度目がその人の失敗である」
 という考え方だった。
 だから、絶えず、失敗しても一度だけという人がいたとすれば、その人は神であり、幹部候補生ということになる。人間が二度失敗するのは当たり前のことで、なぜなのかと訊かれると、
「人間だから、当然」
 と、この教団では考えているようだ。
「教祖は神である、大王神であり、その下に、一度しか失敗することのない幹部がいて、その下に、二度失敗する一般の信者がいるという、
「キチンとした理由のある階層」
作品名:自殺を誘発する無為 作家名:森本晃次