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自殺を誘発する無為

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 そんな集団の中にいると、次第に感覚がマヒしてくるものであり、これがマインドコントロールにふさわしい環境でもある。マインドコントロールする場合の一番の問題は、受けている本人に自覚がないことが大切だった。少しでもマインドコントロールという言葉が頭に浮かべばそれは失敗を意味する。一度マインドコントロールに失敗した人にも二度と掛けることはできない。それは、その人の中でマインドコントロールのための抗体ができてしまって、免疫による力で、掛けようとしても掛けることができないのだ。
 それは、一度掛かった人でも、一度覚めてしまうと、再度掛け直すことができないということと同じであった。それだけマインドコントロールというのはかなりデリケートなもので、そのあたりは催眠術に似ているのではないだろうか。
 この団体にも、他の団体のような、
「戒律」
 が存在する。
 その戒律は言葉上は他の宗教と同じで、
「〜してはいけない」
 という文になっているのだが、その内容は結構厳しいものだ。
 漠然としている中でも、ものによっては限定されるものもある。ハッキリと示していないのは、おそらくいくらでも解釈ができるようにするという、支配者としての考え方が組み込まれている証拠ではないだろうか。それを思うと、戒律というものが、いかに信者を締め付けるかということになるのかと考えるのだ。
 この宗教団体が、どこからやってきたのか不明である。誰が興したのか。どの宗教からの派生なのか? そもそも派生などという考えではなく、まったく新しい突然変異のようなものなのか、誰にも分からなかった。
 そういう意味でも教団の歴史が書かれた書物が残っているわけではなく、厳密には教祖が持っているのだが、それを信者に知らせるまでもないというべきか、知らせてはいけないというべきなのか、知っている人はすでに誰もいなかった。信者にとって教祖はどういうものなのか、他の宗教団体よりも薄いところがあるとすれば、そのあたりの事情が絡んでいるのだろう。
「恐怖政治」
 という言葉があるとすればそうなのだろう。
 だが、それを実際に感じている人は、教団で普通に暮らしている限りは存在しない。
 彼らがこの教団に入ってくるまでいた、元々の俗世間に対して感じることは、たぶん、皆同じではないだろうか。
「地獄というものは、この世にこそ存在する」
 という感覚である。
 俗世間で彼らは、
「地獄」
 を見てきた。
 それぞれに感じる地獄があるのだろうが、お金がないことで痛感させられた空腹や身体的な苦痛であったり、人からの支配の強さから逃げることができず、拘束され、蹂躙され続けた毎日、そして、家族からの監禁、暴行などと言った、ありとあらゆる欲望による束縛。そんなものをこの世の地獄として経験してきたのだから、教団において少々のことがあっても、普通に耐えていけるというものだ。
 しかも、まわりにいるのは、皆同じような苦しみを乗り越えて集まってきた連中である。これほど深い絆があろうかというものだ。
 俗世間においては、皆親切な顔をして、平気で人を裏切る。それも自分の欲望のためには相手がどんな人であっても、恩義のある人であっても、裏切る時は裏切るのだ。その時に浮かんだ表情の恐ろしいこと。まったく悪気のないその表情は悪魔そのもので、それこそ、
「この世の地獄」
 という言葉そのものである。
 それに比べると、教団が差し伸べたその道には、極楽浄土への道であると言われる、
「十万億土」
 が目の前に広がっているようだ。
 実際に十万億土など、誰が見たことがあるというのか分からないが、確かに彼らには見えたのだろう。釈迦から洩れる後光が明らかにその道には降り注がれ、教祖が釈迦如来に見えたに違いないのだ。
 信者には、入信してしまえば、
「自分たちは、教祖様に守られている」
 という考えのもと、地獄から解放された喜びと、自給自足により、
「これが生きているということの証明だ」
 と言わんばかりの状況に、満足しきっていることであろう。
「私たちは決して、過去に味わったこの世の地獄に戻ることはない。家族であろうが、俗世間の人間は自分を見捨てたのだ。手を差し伸べてくれた唯一の教団に身を捧げて何が悪いというのか」
 というのが彼らの理屈である。
 考えてみれば、それも無理もないことだ。
 俗世間が本当の世界であり、教団を怪しい集団だと決めつけている方がおかしいという考えだが、冷静に考えると、
「それのどこがいけないのだ」
 という思いい駆られる。
 確かに教団の「恐怖政治」のようなやり方には問題はあるかも知れないが、少なくとも集団をまとめていくわけだから、すべての人間の考えを取り入れていてはうまく組織は回らない。教団の教えの下に、ここの人間が、わがままを言わないという形にしてしまえば、彼らを締め付けたとしても、彼ら自身はその状態を、
「悪いこと」
 だとは思わないだろう。
 それを洗脳だとか、マインドコントロールだというのであれば、この世での教育というのは何なのか?
 モラルやマナーという考え方は、あくまでも、世間を一つに纏め、支配しやすいようにするための、一種のマインドコントロールなのではあるまいか。しかも俗世間の人間は自由という言葉を履き違え、いかにわがままであっても、許す傾向にある。そうなれば、マナー、モラルなど守る人も少なくなり、一緒の無法地帯のようになってしまうこともある。この世で戦争がなくならないのも、その一つではないか。ひょっとすると、
「ノアの箱舟」
 のような、この世での、
「文明の浄化」
 というものが必要なのかも知れない。
 宗教団体を進行する人すべてが悪い人のように見られるのは心外だというのは、信者でなくとも感じている人は多いかも知れない。しかし自分の知り合いに得体の知れない宗教団体の信者がいれば、どう対応していいか分からないだろう。
 まず考えることとして、
「自分も信者である知り合いと同じ目で見られたらどうしよう」
 という思いである。
「俺は、お前を偏見の目では見ないからな」
 などと信者の友達に言っていたとすれば、これでは完全に裏切りもいいところである。
 しかし、実際に変な目で見られてしまうと、自分の死活問題にでもなれば、友達のことなど考えていられなくなる。それはまるで、知り合いが苛められていて、そばにいた自分に苛めっ子が、
「お前も一緒に苛めてみろ」
 と言われて、果たして断り切れるかということである。
 その時は自分に危険がなくとも、その時苛めをしなかったことで、自分も苛められるようになってしまうと、本末転倒である。それを思えばいくら裏切り行為になろうとも、一緒になって苛めるのではないだろうか。
 そんな状態を打破することは自分にはできない。皆がそう思ってしまうと、いくら口では、
「信仰の自由」
 などと言っても、まるで張り子の虎のようなものだ。
 だが、こんな宗教団体であったが、ある時から戒律が急に甘くなった時があった。
「団体を抜けるのは自由である」
 というお触れを出したのである。
作品名:自殺を誘発する無為 作家名:森本晃次