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自殺を誘発する無為

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 そもそも彼らは俗世間で、人の話を聞かされた後、リアクションの取り方が悪いと言って、折檻されてきた連中である。いくら仲間だとしても、どういう表情をしていいのか分からないのを見せたくはない。要するに、
「自分が嫌なことは相手も嫌に決まっている」
 ということなのである。
 そんな小僧たちはその日も普段と同じ朝を迎えていたのだ。
 ただ、最初こそ、三人は新鮮な気持ちで掃除をしていたはずだったが、そのうちに、三人の考えが素小鈴津ブレ始めた。つかり、最初こそ、真面目に何も考えず、奉仕の心だけしかなかったはずが、少しずつ、何かを思い出してきたのか、楽をしようと考えるよyになる輩もいた。
 だからと言ってサボるわけではなく、
「いかに、苦労をせずにやり遂げるか」
 ということを想うようになってきた。
 そもそも、掃除をするということ自体、修行のはずだった。最初は分かっていたはずなのに、楽をしようと思った瞬間、それが修行であるということを忘れてしまったのであろう。役割分担を決めていたわけでもないのに、それぞれのポジションを理解しながらできていた掃除に少しぎこちなさが出てくると、ぎこちなさを感じた小僧は、次第に自分だけでも、楽ができるのではないかと思うようになっていた。
 楽をすることはいくらでもできるであろうが、この掃除というもの自体が修行なのだ。楽をしようと考えること自体、主旨に反している。楽をすることで主旨が変わってしまうわけではない。楽をしようと思ったその時点で主旨が変わってしまうのだった。
 修行というものが、どれほど厳しいものなのか、小僧たちは知らない。そもそも、今までに努力などしたことがなかった三人だった。今まで確かに理不尽な目に遭って、ここに逃げ込んできたのは、気の毒だとは思うが、元々学校でも家でも、彼らに何か大切なことを教えるという風潮にはなかった。親は子供を迫害することで、自らのストレスを解消していたようなものだっただけに、何かを教えるようなことはない。教えるだけの資格もなく、教える資格があったとしても、一体何を教えるというのか。それだけの技量を持っているわけではないのだ。
 ただ、親から迫害や苛めを受けているうちに、
「いかに苦しみを少しでも解消することができるか」
 ということばかりを考えるようになった。
 すでに受ける苛めから逃れるという選択肢はなくなっていた。あとは、いかに自分が苦しまずに済むかということしか考えてはいけなかったのだ。下手に逆らって相手の気持ちを逆なでするよりも、まったく逆らわず、台風が過ぎ去っていくのをじっと我慢して時間経過だけを感じるしかないのだった。
 そういう意味で、
「楽をしよう」
 という考えは無意識に出てきたものに違いない。
 そう考えることが彼らにとっての正義であり、一番の味方になる考えだったわけだからである。
 三人のうちの一人だけが、楽をすることに目覚めていた。後の二人は、ただロボットのように毎日同じことを無表情で繰り返すだけだった。
 それを見て、楽をしようと思った小僧は、
「まるで洗脳されているようだ」
 と早くも気付いた。
 自分たちは、何も考えずに、修行をしていると思っていたが、何も考えていないわけではない。知らず知らずのうちに、
「この教団で生き残っていくためには」
 と考えるようになっていた、
 もう、そんな考えは俗世間ではすでにマヒしていた感覚だった。苛めという迫害は、人の心から考えることを奪ってしまう。その人を苛めること自体が罪ではあるが、本当の罪というのは、その人が考えることを停止させて、感覚をマヒさせるという間接的な方法による迫害なのではないだろうか。
 教団にはいろいろな階級がある。ただ、それは責任を中心にした階級ではなく、あくまでも役割分担を決めるための階級とされてきた。小僧たちも実際にそう思っていたが、楽をしようと考えた人間は、それを見ると、少しおかしな考えが頭に浮かんでくるのであった。
「競争がそこになければ、上の階級を目指そうなんて誰も思わないんじゃないかな?」
 と考えた。
 俗世間でいう、いわゆる、
「出世」
 というものは、いい面と悪い面の二つを持っている。
 しかも、いい面の中にも悪い面の中には、それぞれに、良し悪しの部分を持っているのだ。
 出世することで、給料が上がったりするのは嬉しいが、その分、家族ができると、自分で給料を稼いでくるわけではない家族には、本当のお金の価値観が分かるわけもなく、結局は、給料が上がっても、給料を稼いでくる自分には、何ら得になることはないという考えである。
 また出世すると、その分、仕事での責任が重くなってくる。それは、自分だけの問題ではなく、長という言葉のつく仕事についたことで、部下であったり、後輩が行ったことに対して、監督責任というのが生まれてくるのだ。
 ここでも、同じような責任が存在し、それを回避することはできない。団体行動をするうえで、責任は不可欠であり、その責任を誰か一人に押し付けることはできないのだ。
 その思いは、自分が俗世間でしてきたことであった。苛めというのは、一種の責任転嫁であり、たとえ相手を無視する場合であっても、不安な気持ちを和らげようとする気持ちを他人の存在で解消することができないからであった。不安な気持ちになるというのは、基本的に、自分に対しての何かの責任に対して感じる不安だからではないだろうか。教団は勉強会などで、いつもそのような話をしている。
 教団の勉強会といっても、たぶん、それは俗世間でのいわゆる、
「教育」
 というものと変わりはないだろう。
 団体でも、俗世間においても、事実が微妙に異なっていたとしても、真実は一つである。そのことを教祖が信者に直接教えるわけではなく、勉強会によって自分たちで気付くというのが、この団体の特徴であり、あくまでも勉強会というのは、教団運営としては大切な時間ではあるが、それが教団としての存在意義なのかというとそうではないようだった。
 三人の小僧たちは、掃除をしながら、普段は何も考えていなかった。何も考えないことが一番楽な道であり、楽をしようと考えれば考えるほど、楽ではなくなっていくことに気付かないのだ。
 それは、、彼らがまだ新参者だからであろう。何も考えないということは、将棋でいうところの、最初に並べた形である。
「将棋で、一番隙のない形というのは、どういうものなのか分かりますか?」
 と訊かれて、知らない人は、すぐに、
「分かりません」
 と答えるだろう。
 それは本当に分からないのではなく、実際には最初に思いつくことであり、逆にそれ以外を思いつかないことで、本当にそうなのかという疑心暗鬼に捉われてしまうことで、回答に窮するのであった。
 その手というのは、
「最初に並べた形」
 である。
「そこから、手を重ねていくと、お互いに駒を取ったり取られたりで、次第に相手に攻め込んでいく。こちらが攻めていると、当然相手も攻め込んできているのであって、お互いに手はまったく違った形で進んで行く。
 その頃になると、攻撃だけではなく、防御に対してもしっかり考えなければいけない。これが団体競技であれば、
作品名:自殺を誘発する無為 作家名:森本晃次