短編集110(過去作品)
足元の影を気にしながら歩いていることが多い。そんな時足が重たく感じられ、靴を履いている足が浮腫んでくるような気がしてくるのだ。暑さのためにバテているのも事実だろうが、きっと影を見つめることで、何かを思い出すのだろう。
足元から伸びた影を見ているとお腹が減ってくる。子供の頃にはよく日が暮れるまで遊んだものだが、その時の記憶がよみがえってくるからに違いない。
子供の頃の記憶というのはバカにできるものではない。大人になって物忘れが激しくなった分、子供の頃に感じていた時間が長かったことを今さらながらに思い起こさせるからで、不思議なことに一日一日はあっという間だったように思っていたのに、一年という単位で考えると、実に長く感じられる。
子供の頃の方が毎日同じことの繰り返しだった。きっとそれは大人になってから感じることだからであろう。毎日の授業時間が変わるわけではなく、生活周期も同じである。だが、社会人になってから毎日のように変化があるはずの生活なのに、抑揚を感じない。それは精神的なものが作用しているからに違いないのだ。
飽和状態に近いものが大人になってからあるのだろう。子供の頃は毎日が成長を意識でき、成長を意識すると、希望を感じていることができた。
それは意識的にであっても、無意識にであっても同じことだが、無意識の中にある意識とでもいうべきだろうか、どこから来るのか分からないウキウキした気持ちがどこかにあった。
しかし、その裏返しとして、どこから来るのか分からない不安も裏返しには存在していただろう。だから成長というものを意識することに躊躇があったり、戸惑いがあったりしたに違いない。それは大人になってから分かったことで、子供の頃に意識できてはいなかったであろう。
大人になってから子供の頃のことを思い出すのはあまり好きではなかったが、最近は思い出すことが多くなった。
嫌な気がしなくなった。思い出すことすら心地よさを感じるようになっていた。
「人間、いつでも前を向いて成長しているので、あまり後ろを振り向くと繰り返しの人生になってしまうぞ」
と高校の時の担任が話していた。その言葉が今でも脳裏から離れないのだが、歴史の勉強を推奨もしていた。
――どこか矛盾しているよな――
と思っていた。
歴史とは、過去を振り返ることである。過去の点を線で結び、未来を見つめる目を養うことのできる学問であると話していた。過去を振り返らずして未来はないのだ。
だが、最近では少し違う考えを持つようになった。
後ろを向くということは、ただ過去の点だけを見つめるということではないか、過去の点と点を結んで線にすることは後ろを向くこととは厳密には違うことだという意識が芽生えてきたのだ。
歴史認識と後ろを振り返ることでは次元が違うが、底辺でも考え方が違っていることに気付かない間は、正しい歴史認識などできっこない。ちなみに順平は学生時代、歴史はあまり好きではなかったが、学校を卒業してから興味を持ち始めた。精神的な飽和状態が、気持ちの中にある種の余裕を生んだのかも知れない。
ある角を曲がると、歴史の重さを感じる。いつも曲がった時に、小学生の頃に好きだった女の子のことを思い出すからだった。
よくその娘の家に遊びに行ったものだ。まだ異性への興味もなかったはずなのに、一緒にいるだけで胸の鼓動を感じていたのは、それがきっと初恋だったからに違いない。好きな女の子のタイプを自分で思い浮かべた時、必ずその娘がイメージされるのだった。
――今はどうしているのだろう――
「私、看護婦になりたいの」
と言っていた彼女が一番印象的だった。
子供の頃は身体が弱く、しょっちゅう病院に通っていた順平は、看護婦さんにはひとしおの思いがある。体調が悪い時こそ、優しくされると心地よいものである。注射の針が刺さる時であっても、心地よさを感じられたのは、病院という静寂な場所で、適度な暖かさの中で人恋しくなっているところへの優しい言葉がそう感じさせるからに違いない。
あまり背が高くなかったが、おかっぱぽかった彼女の顔は、少し大きく感じられた。白さを感じない健康的な顔色は、大人の女性を思わせるところがあった。家では母親はいつも化粧をしているイメージしかなく、白粉などの匂いが母親の部屋には充満していた。そんな匂いをあまり心地よく感じていなかった順平にとって、小麦色の天然色は実に新鮮な色だったのだ。
それだけに女性として意識していなかったはずだ。そのくせ、同い年であるにもかかわらず、どこか年上を見ているように思えるのは、喋らなくとも頼もしさが醸し出されていたからかも知れない。
声もハスキーな感じだった。とても男の子からもてるような雰囲気ではなかったが、今から思えばそこがよかったのかも知れない。
競争相手が少ないことを最初から意識していた。今でもその傾向は残っているが、最初から逃げ道を作っておく性格であることは自覚していた。それがいつからだったのか定かではないが、少なくとも小学生の頃からあったということは間違いないようだ。
小学生の頃はいじめられっこだった。苛められることに慣れてしまうほどで、ただ、陰湿ないじめではなかったことが幸いしたのだろう。中学に上がる頃には、自分を苛めていた連中とも仲良くなり、お互いに小学生の頃の話題は出さないようにしていた。
ぎこちない雰囲気というわけでもなかった。お互いに過去を振り返ることをしないようにしていただけで、中学生ともなると、大人の考えも現れるもので、成長という意味では順平の方が、苛めていた連中よりも早かったのかも知れない。
一目置かれるようにすらなった。
小学生の頃の方が勉強ができた。勉強を楽しんでしていたように思う。だが、まわりの人は決して楽しんで勉強をしているわけではない。勉強が嫌いな連中を無意識に毛嫌いしていた小学生時代。苛められた原因はそのあたりにあった。
中学に入ると、自分が考えているような勉強ではなかった。算数のように、一つの答えを求めるのに、いろいろなやり方を考える勉強が好きだったのだが、数学になると、公式に当てはめて理論で回答する勉強に変わることで、
――こんなはずではない――
と、それまで一生懸命に考えてきた数字への思いが瓦解してしまった。勉強が億劫になってきたが、その代わり、社会や歴史が好きになってきたのだ。
中学に入って変わってしまった順平、それまで癒されていたはずの彼女の存在が急に薄いものに感じられた。
――どこが好きだったんだろう――
確かに、
――本当に好きだったのか――
という自問自答に、答えるすべを知らない。そんな順平の態度は、彼女を不安にさせ、それまでなかったぎこちなさが二人の間で大きくなる。それまであっという間だったはずの時間がじれったく感じられるようになり、一緒にいることが苦痛になってくる。
お互いにそう感じていることで、却ってすんなりと別れられたのかも知れない。
――そもそも付き合っていたとは言えないのではないだろうか――
と思えるほどで、会話がなくとも一緒にいるだけで、新鮮だったことがまるでウソのようだ。
作品名:短編集110(過去作品) 作家名:森本晃次