短編集110(過去作品)
「会話がない付き合いなんて俺は信じられないな」
と友達が言っていたが、
「お互いに気持ちを確かめ合うことは絶対に必要なのさ。恋人同士と言ったって、赤の他人だからな」
あまりにも冷めた発想。聞いているだけで耳が痛くなってくる。それは自分のことを言われていると思っていたからで、そのことを意識するようになったのは、別れてからだというのも皮肉なものだった。
その彼女の家が、角を曲がってすぐの光景に似ているというのだろうか。舗装もされていなかった道の向こうに、木造住宅の平屋が並んでいた。昔のテレビアニメなどで見かけた光景、今ではどこに行ってもお目にかかれないものだ。今では田舎でも区画整理がキチンとされていて、却って田舎の方が豪勢な住宅街になっていたりするものだ。
決して田舎ではなく、かといって都会とも言いがたい。これから発展する街というのは、得てして貧富の差が激しいものだ。
順平の家は父親の会社の社宅だった。アパートというよりも、コーポに近い感じで、当時としては珍しかったことだろう。こじんまりとした佇まいに、子供心に、
――まるでおもちゃの家のようだ――
とさえ思っていた。
近くに新興住宅街ができてくる。区画整理の波が押し寄せてきて、彼女が住んでいた地域も取り壊されて道路になる計画だった。
遊びに行って感じたことは、表から見るよりも中に入ると結構広かったことだった。明らかに古い家で、老朽化を隠すことはどうしても免れなかったが、それでも暖かさだけは感じられた。
「これでもずっと住んでいるからね」
と言って笑っていたが、順平は自分に住めと言われれば、絶対に嫌だとしか思えなかった。
貧乏でもお金に執着をあまり感じさせないところが、彼女の魅力だったが、看護婦になりたいという言葉は彼女の性格を表している。何とかお金を稼ぎたいという現実的な思いと、人を助けたいという存在価値をしっかり見つめているという自分を知っているからに違いない。
そんな彼女も区画整理が行われる頃には引っ越していった。引っ越すことになった頃にはすでに気持ちは遠くにあった。他の女性を意識し始めた順平に、彼女はいつまでも初恋の頃のままであった。
いつまでも区画整理される前の光景が残っていた。区画整理されるようになってから、彼女の住んでいたあたりに立ち寄ったことはない。
角を曲がれば、木造の平屋が広がっているというイメージを残したまま、大人になったのである。
今までに家の近くのこの角を何度曲がったことだろう。高校に入ると順平も引っ越した。分譲住宅をやっとの思いで手にした父親の努力を、順平はよく知らない。働くということは漠然としてしか分からないので仕方のないことである。
好きなことができず、その時間は人の命令に従っていなければならないというのが、働くということのイメージだった。大学時代にはアルバイトをしていたが、アルバイトの延長が就職だと思っていたのだ。
言われたことだけをやっていればそれでいいのがアルバイト。人からの命令だけの一方通行ではあるが、自分で考えることもそれほどなく、責任もない。気楽といえば気楽なものだ。
だが、社会人になって働くというのは、そんなものではない。
まず、責任という二文字が背中にのしかかってくる。自分ができなければ人にやらせる。しかし、やらせた相手が何か失敗すれば、やらせた自分が悪いことになる。学生時代から見れば理不尽なことも多いが、それで社会が回っていると思うと、あながち嫌だといってやり過ごすことはできない。
分譲住宅は完全に区画整理されたところに出来上がったものだ。彼女が住んでいたようなところが、今住んでいる街の前に存在していたことも十分にありうる。しかし、すべてを壊して、そこから新しいものを作ったのだから、昔の面影などあろうはずもない。
角を曲がれば同じような光景が広がっている。
分譲住宅というのは、同じような土地に同じような住宅を建てるものである。街づくりにもある程度のマニュアルのようなものが存在し、住宅街というと、どこもあまり変わり映えのしないようなところが多いことだろう。
何度となく曲がった角、その時に同じ数だけ彼女の家を思い出す。その瞬間だけタイムスリップしているかのようだった。
デジャブーというのは、心理的なものが見せる錯覚のようなものだと聞いたことがあるが、角を曲がって思い出すイメージはデジャブーではない。デジャブーほどハッキリとしていないが、これだけ毎回思い出していれば、心理的にかなり大きな存在になっていることだろう。
曲がった角で思い出す彼女の家と、自分の家の玄関に入った時に感じる思いは毎日のことだった。通り過ぎるとイメージはまったく消え失せて、心理が見せるものは、トラウマではないかとさえ感じさせた。
しかし、トラウマというほど精神的な苦痛ではない。トラウマという言葉を聞けば自虐というイメージが強いが、順平は自虐に時々陥ることがあった。
角を曲がってから家までは、それほど時間が掛からない。
家に帰ってしまえば思い出すのは違う女のこと、それだけに角を曲がってから家までは、完全に夢物語を見ているような気分だ。
ゆっくりと歩いているつもりはない。それでも歩くスピード、距離から考えると、かなりの時間が費やされている。それが夢だと思うゆえんであった。
角を曲がってから家に帰りつくまでの間、かなり足が疲れてしまう。舗装道路は慣れているはずなのに、まるで小学生の時に歩いた舗装されていない道路を思い出させるものだった。
それでも歩いている時に疲れるのではなく、家についた時に疲れていることに気付く毎日だった。足の裏に痺れを感じることもしばしばで、時間旅行を感じているのかも知れないとさえ思うほどだった。
一人暮らしのマンション、一LDKであったが、それほど荷物があるわけではないので、狭く感じることもない。掃除をするのが苦手なので、適度な広さであった。
夏でも部屋の扉を開けて玄関に入ると、一瞬冷気を感じる。しかし、入ってしまうと、一気に閉め切った部屋に篭った熱気が玄関先までやってくる。
部屋を開けて熱気に包まれるまでの時間は、本当に一瞬の冷気である。だが、それが思い出を運んでくるのだった。
この時間もまるで夢の中にいるかのようだ。だが、思い出すのは遠い過去ではなく、現在も進行していることだ。
会社に行けば、毎日顔を見る。そのほとんどが横顔で、最初は意識もしていなかった。あまり一目惚れをすることのない順平は、事務所で最初から女性を意識するということはなかった。
しかし、一旦気になってしまうと、なかなか頭から離れない。しかも最初から意識していたわけではないので、露骨に見ることもできない。
露骨に見ることはないはずなのに、まわりの人は敏感で、どうやら順平の視線の行方を知っているようだった。
おおっぴらではないが、噂になっているようだ。進展があるわけではないのに、噂だけが進行するのは、あまり気持ちのいいものではない。中にはおせっかいなおばさんもいて、
二人をくっつけたいと思っていたりする。
作品名:短編集110(過去作品) 作家名:森本晃次