短編集110(過去作品)
一日に数本の点滴を打つ。ほとんど身体を動かすこともできず、病室の天井を見つめている時間の長いこと、時々点滴のケースを見ながら、
――なかなか減らないな――
とさらには、落ちてくる点滴を見つめていて、不思議な感覚になっていた。
いくら少しずつとは言いながら、確実に落ちてきている。
――点滴が減ってきているはずだ――
と思っている間は、なかなかケースから液が減ってきているようには思えない。それがそのうちに見ているだけで落ちている点滴を意識しなくなってくると、液が減ってきたように思える。また落ちてくる点滴を意識し始めると、やはり液の減りを感じることができなくなる。そんなことをずっと繰り返しているうちに、最後の一滴が落ちるのだった。
その頃は時間の感覚もなくなってしまっていたが、ナースが見計らったようにやってくるのだ。
「よく分かりますね」
「ええ、大体の感覚は毎日やっていると分かってきますよ。自分の感覚で落としていると、終わるまでにどれくらいのものかは、時計を見れば分かるようになりますからね」
といって、彼女は腕時計を見つめた。
小さいが高級時計であることはすぐに分かった。ナースというのは、それだけ時間にシビアな仕事なのだろうと思って見ていると、急に気になり始めた。
入院生活に、これほど孤独感を感じてしまうものだということを今さらながらに思い知った気がしていた鹿島だったが、体力以上に、気力が失せてくるのを感じていた。
寂しさが時間を支配していると、これほど時間の経つのが遅いものだということを実感していた。そんな時に恋しいのが癒しである。ナースの笑顔が癒しになるというのは、ドラマなどを見ていると、
――そんなこともあるんだな――
と思うことはできても、
――所詮、ドラマの中だけでのことだ――
と思えて仕方がなかった。
だが、実際に笑顔を見ていると、
――白衣の天使とはよく言ったものだ――
と感じるようになっていた。それだけ心細かったのかも知れない。点滴を打たれる痛みさえ、心地よく感じられるくらいである。
「チクッとしますよ」
耳元で囁かれると、ドキッとしてしまう。最初はあまり感じなかった妖艶さを感じてきた自分に自己嫌悪はなかった。自然な意識だと思っていたからだ。
週刊誌などで、患者とナースの淫靡な関係を、記事にしているのを見ていたが、
――そんなことはありえないさ――
と思いながら、
――ひょっとして――
と感じる自分がいたが、それこそ作者や雑誌社の思うつぼだったであろう。どちらとも言えないような話は、最終的にどちらを感じたとしても、意識として残ってしまう。それならば、他の話も見てみたいと思うのは人間の本能のようなもの、結局愛読者になってしまうだろう。
鹿島は性格的に、自分が見たものでないと信じない性格だった。人から聞いた話もまず一度は信じてみるが、自分に当て嵌めてできないことなどは、信じないようにしていた。
――そんな人間ほど、週刊誌の思惑に嵌ってしまいやすいタイプなのかも知れない――
と鹿島は感じた。
週刊誌の思惑に嵌る自分を感じながら、自分も人を自分の思惑に嵌めてみたいと思うようになっていた。
入院生活を日記にして書いていたのだが、それをあとでまとめてフィクションとしての話にできないかと思ったからだった。日記などそれまで書いたことのない鹿島だったが、書いてみると結構書けるもので、気がついたら結構な量になっていた。
――俺って文才もあるのかな――
自惚れだと分かっているが、自惚れが悪いわけではない。自己満足も悪いことだとは思っていない。
――自分で満足できなくて、人を感動させられるものか――
というのが鹿島の考えで、自己満足を否定していれば、成長はそこで止まってしまうに違いないと鹿島は考える。なるべく最初は受け入れて、そこから考えを自分なりに吟味することで先に進む。勝手な判断でせっかくの考えを打ち消してしまうことを嫌っていた。
小学生の頃まではそうだった。
好きになった女の子がいて、彼女と何となく仲良くなった。何となくという感覚は、異性に興味を持つ年齢でないことから、何となくと感じるのであって、今から思えば、やはり子供の考えだったのだ。
その女の子が髪を切ってきたのを見た時、一気に気持ちが冷めてしまった。その時の感覚は大人になってからでも忘れることができない。彼女から去っていったのは鹿島の方からだったが、彼女もそれに対して嫌な顔一つせず、受け入れた。その証拠にそれからもしばらくは友達として話をしていたくらいだ。
だが、感覚は完全に違うものだった。いとおしさがまったく消えていた。小学生の頃に感じたいとおしさは、異性を感じるようになって最初に人を好きになった時の気持ちに似ている。胸のときめきのようなものを感じるからだ。
そういえば、入院している時に介護してくれたナースは、小学生の頃に好きだったその女の子の面影を感じさせた。
存在感は大いにあるのだが、どこか物静かである。そういえば鹿島が物静かな女性を気にするのは、小学生の頃に好きになった女の子だけだった。入院している時の心細さと小学生の頃の感覚が似ているのかも知れない。
――何かにすがりたいという、言い知れぬ不安感があるのだろう――
しかし不安感というのは、むしろ意識している時の方が辛いものである。言い知れぬ不安というのがどんなものか、今になって思い出そうとしていた鹿島だった。
入院中に書いた話をコンクールに出すと、佳作として入選することができた。市が主催している小さなコンクールであったが、それなりに嬉しいものだ。市が出している広報誌に数ヵ月後掲載されたが、それを見た頼子はビックリしていた。見る見るうちに顔色が変わってくるのが分かり、さすがに鹿島もビックリして、今さらながらに自分の作品を読み返してみた。
――これは――
自分の作品でありながら、読み返してみてこれほど書いた時の気持ちに思い入れがあったことに初めて気がついた。作品を書いたのが、はるか昔だったように思えるほど、自分が考えていたよりもリアルに描かれている。
内容はさておき、最初あれほど思い入れがあったことに気付かなかったくせに、いざ思い出してみると、まるでさっきまで感じていたような感覚になるから不思議だった。
入院生活の一週間というもの、長いようであっという間だったことが今さらながらに思い出される。ナースの女の子の表情をハッキリと思い出すことができるほどだ。さっきまでは、入院生活を思い出そうとするときっと思い出せなかったに違いないだろう。ナースの顔もおぼろげだったに違いない。
元々、人の顔を覚えるのが苦手な鹿島は、ナースの顔を半分忘れていた。入院期間中はさすがに病気で入院しているので、普段とは精神状態が違っていて、少なからずの不安感を抱いていたはずである。
作品名:短編集110(過去作品) 作家名:森本晃次