短編集110(過去作品)
鹿島と同じような考えが頼子にもあったからである。長所と短所をいつも見続けているのは、育った環境の違いや、男女の違いこそあれ、変わらないのではないだろうか。そこが持って生まれた性格であり、頼子が出会いを運命付けられたものだと感じるところでもあった。
頼子も自分がわがままなのは分かっている。分かっているが、世間一般の常識というのがよく分かっていない。
鹿島の中にある正義感、それはすべての人に向けられるものではない。キチンとした状況判断ができるはずの人間が、分かっているはずなのに、マナーを守れない時に怒りを感じる。マナーの何たるかを分からない人間には、却って教えてあげるくらいの気持ちが鹿島の中にあったのだ。
そういう意味で、頼子は鹿島にとって、
――教えてあげたい相手――
に当たるのである。お嬢様として育った頼子に一般常識が欠如していることは見ていて分かった。自分にどれだけ教えてあげられるか分からないが、せめて甘えを取り除いてあげるくらいのことはできるはずである。
頼子に感じた気持ちが恋愛感情に近いものではあるが、厳密に恋愛となると少し疑問が残った。それは、彼女の甘えを取り除いてあげた後で、どのように自分が考えるかということだということだった。
情に脆いという感覚とは厳密には少し違うだろうが、鹿島の中にある正義感に近いものがあることには違いない。
――正義感から、彼女と付き合っているのだろうか――
という思いは常々頭の中にあった。その都度、
――そんなことはない。彼女の本質は素敵な女性なんだ。今まで他の男性が見たことのない彼女の性格をこの俺が発掘するんだ――
これが本音であった。
しかし、本音だという思いが強ければ強いほど、自ら頼子を近づけないようにしている自分に気付く。遠ざけているわけではなく、どこかに一本線を引いて、それ以上近づけないようにしているのだった。まるでバリアをしいているような感覚だ。
自分の中のどこかにウソを感じ始めていた。偽善ではないかということが鹿島の中に蓄積されていく。その思いが次第にストレスとなっていき、気がつけば身体を壊していた。
頼子はそれがどうしてなのか分からなかった。
「私が至らないばっかりに」
と頼子は涙目で訴えている。その気持ちは本音であることは分かっているので、無下な態度は決して取れない。
「そんなことないさ。心配することはない」
胃を壊して、一週間ほどの入院を余儀なくされたが、その時に壊したのは胃だけではなかった。
「鹿島さんはストレスから胃を壊しているようですが、他の部分にも少し影響があるようですね。精神的なことが正直に身体への変調となって現れる人は少なくないですので、鹿島さんも気をつけてくださいね」
主治医の話であった。入院といっても、大袈裟に考えることもなく、リフレッシュする意味も大きいというのも、主治医の話であった。
医者には、まわりの環境のことは少しだけ話したが、頼子のことは話していない。女性関係によるストレスだということを自分で認めたくないという思いもあったからで、認めてしまうと、頼子を見る目が絶対に変わることは分かっていたからだ。
一旦変わってしまった見方を元に戻すのは難しい。何とかごまかしていた部分もあるだけに、完全に変わってしまうのが怖いのだ。
――それならいっそ別れてしまえばいいのではないかー―
と自分に言い聞かせてみたが、
――逃げてしまうことになることは許されない――
というもう一人の自分の声が返ってくる。それは、正義感こそ自分の長所だと思っている自分であって、正義感という特徴がなくなれば、自分ではないと感じていることを今さらながらに思い起こさせる。
自分の中での正義感は、自分の存在を意識するのに欠かせないものである。個性を尊重し、他の人にないものを絶えず求めている鹿島にとって、まさしく正義感は個性を司る基本でもあるのだ。
一週間の入院生活は、鹿島にとって今までに考えられないものだった。
健康には自信があった。
「医者の不養生」
という言葉があるが、まさしく健康に自信のある人間は、自分の身体の衰えを意識しないものである。胃が痛くなるなど人から話を聞いていても、実際に意識したことがなかっただけに、どんなものか想像もできなかった。
「胃が重たいというのかな。最初は吐き気から来るんだけど、喉の奥から気持ち悪さが起こったと思うと、どこが痛いのか分からないくらいになってくるのさ。それが胃から来ているって、最初は分からないものさ」
話を聞いていなければ、胃の痛さから来ているものだとは感じなかっただろう。なるほど、話の通りだった。
「ストレスから来る胃の痛みを感じている時は、なるべく余計なことは考えない方がいいかも知れないね」
胃の痛みと付き合って久しいという人の話だけに、信憑性はあるだろう。ただピンと来ないところがあるだけで、それでも話を聞いておけば、自分がその立場になった時に、役に立つと思っていたが、まさしくその通りになった。
「それほど痛いのかな?」
「瞬間瞬間が痛いというべきかも知れないね。君は足が攣ったりしたことがあるかい?」
「身体に疲れを感じた時によく攣ったりしますね。でもそういう時って足が攣りそうな予感めいたものがあるんですよ」
というと、
「胃が痛む時もあるんだよ。予感めいたものがね。でも、それは足が攣った時とは、若干違っているんだ」
どこが違うというのだろう。そのあたりから胃が痛くなった時の話に関して興味が湧いてきた。
「胃が捩れるような痛みを感じることがあるんだけど、そういう時に前兆のようなものを感じるね。でも、それ以外の痛みの時というのは、眠っていて目が覚めた時に多いんだよね」
「というと?」
「胃液が上がってくるような気がするんだ。喉の近くまでね。だから何となく気持ち悪さを感じて、それが普段と違う味のようなものを感じると、胃の重たさを感じるんだ。そうなると、痛みが徐々に出てきて、抑えることができなくなってしまう。捩れるような胃の痛さを感じる時は、その一瞬は胃が火鉢になったような熱さを感じ、痛さが麻痺してしまうほどの苦しみがあるんだけど、すぐに緩和されるんだ。でも、胃液が上がってくる時は徐々になので、しばらく続くんだよね」
話を聞きながら想像していると、不思議なことに、今までに一度も感じたことのない痛みのはずなのに、イメージが湧いてくるのだった。
――近い将来に、自分に起こるであろう話かも知れないな――
と漠然と考えたが、ストレスが目に見えるものではないだけに、その予想にも信憑性が感じられた。
入院生活一週間は、長いようで短かった。
一日一日は、果てしなく感じられたのに、一週間経って退院すると、まるであっという間だったように感じた。
夢を見ていたかのようだ。夢というのは見ている時は果てしなく感じられても、起きてしまうとあっという間だったりする。さもありなん、夢というのは目が覚める数秒間くらいでそのほとんどを見てしまうものだというではないか。
作品名:短編集110(過去作品) 作家名:森本晃次