短編集110(過去作品)
服装や雰囲気は思い出せる。だが、顔は思い出すことができない。すると、友達の顔も次第におぼろげになってくるのを感じた。その時に、一緒に感じたのは、彼女から漂っていた匂いである。匂いを思い出していくうちに、次第に二人がどんな顔だったか、思い出すことができなくなってしまっていた。
その時の匂いを彼女に感じた。
彼女の顔を今しっかり凝視しておかないと、すぐに忘れてしまうように思えたからだ。
――彼女の顔も雰囲気も忘れたくないな――
どちらかというと、自分の好みの女性とは程遠いはずだった。どうしてそんなことを感じたのか不思議だったが、
――今なら、駆け落ちした友達の気持ちが分かる気がするな――
と思った。
「裏から表を見るって面白いでしょう?」
滝の裏側に着いた時、彼女が言った。
「ええ」
「世の中もそうなのよ。後ろ側から見ることができたら、どんな感覚なのかしらね」
そう言いながら静かに下を向いた。その横顔にドキッとしたが、今までに見たどんな女性にも感じたことのない新鮮なものだった。
「あなたは、ここからの景色を今までに何度も見ているんですか?」
「ええ、何度も見ているわ。そして、今あなたが私にした質問を、私もその時の人にしたの。そのこともあなたは、何となく分かっているんでしょう?」
ズバリ指摘されてビックリした。
「確かに」
と答えたが、何が確かになのか分からない。後ろの世界から表を見たいという思いは、今までに何度かあった。だが、
――見ることなんてできないんだ――
という思いと、
――見えたとして、もしそこに自分が写っていたら、怖いじゃないか――
という思いが交錯していた。
以前見た夢で、自分が出てくるのを見たことがあったが、それは「もう一人の自分」という意識がハッキリあった。普段であれば目が覚めれば夢の内容など覚えているはずもないのに、その時の夢だけはハッキリと覚えている。
――絶対に忘れるはずなどない――
という思いが大きかったのだ。
「その時の男性とは、それから会ったことあるんですか?」
それもどうやら予測していた質問だったようで、少し表情が暗くなっていたが、
「ここでだけだったわ。でも、その夜は、お互いに別の世界に行っていたのかも知れないわね」
滝の裏側にいて、目の前に滝のカーテンがあるのに、その視線はさらに遠くを見つめていた。
何となく予感めいたものを感じ、一緒にカーテンを見つめていると、まるで吸い寄せられるような感覚に陥ってしまっていることに驚いてしまった。
ハッとした瞬間、彼女を見たが、表情はまったく変わらない。横顔を見つめていれば、さらに冷静な表情に見えてくる。
冷静というよりも、「冷たい」と言った方がいいかも知れない。氷のような表情には硬さがあるが、もろさも秘めている。顔全体が無表情のまま歪んでいるのが想像できた。
――こんなおねえさんがいればいいのにな――
友達のおねえさんをイメージしていた。そう感じると、自分が女性をオンナとしてしか見ることのできない時があることに気付いた。
相手に寄るのだろうとその時は感じたのだが、それを彼女は分かっていたのかも知れない。
「あなたは、素敵な雰囲気を持っているわ。一定の女性を惹きつけるものをね。だから、私はあなたをここにつれてきたの」
と言って、滝の裏をじっと見ていた。
彼女との記憶はそこまでだった。その後、何かがあったわけではなく、翌日早朝には、彼女は宿から帰っていたということだった。
またしても友達から聞かされた女の体についての話を思い出してしまった。だが、そんな時に、彼女の昨日の話である、
「裏から表を見るって面白いでしょう?」
というのを思い出したが、表からだから裏を見たくなるが、裏を見てしまうと意外と想像していたものと違ったりする。だが、裏からさらに表を見ることなど想像できないくせに、想像できるとすれば、まったく違和感のない世界で、興味だけが大いに湧いてくることだろう。
博多に出張で行った時、夜の街で、たくさんの人たちとすれ違う。
流れている川の横にできている道には、果てしない屋台の列が連なっている。有名な博多ラーメンを中心とした屋台だが、その途中に福岡と博多を結ぶ橋が架かっている。有名な「福博であい橋」というらしいが、川面に写ったネオンサインが揺れているのを見ていると、いかにも夜の街を思わせる。
宿に帰って、一人になったが、何かに誘われるように表に出てきた。以前から見てみたいと思っていた光景ではあったので、自分の知っている都会のイメージを頭に浮かべながら見ていると、本当に他のどこにもない美しい雰囲気を堪能することができる。
川面を見ていると、ところどころに波紋ができているのが分かった。まったく分からなかったが、小粒の雨が降ってきているようだった。気付かなかったのは、酔っていたのと、最初から川面に年輪のような細かい溝ができていたからだった。
反対側には、屋台はほとんどなく、あまり見るべきものはないのだが、なぜかそちら側にも人が多い。
――何を見ているんだろう――
と思ってしまうが、そのほとんどはアベックだった。
――そういう時間帯なのかも知れない――
根拠があるわけではないが、何となく確信めいたものがあった。不思議な感覚だった。
ここは出会い橋、人と出会うこともあるだろう。
その思いで何人の人がここから同じ景色を見ていたのだろう。
旅行で見た滝の裏側、裏側のイメージとはその時に出会った女性のイメージ、その場所には必ず、自分のイメージした人の思い出があるはず、そして、あれから粕屋は、見えているものを常に後ろからも見ようという意識がある。
友達が義姉を見る時は、まともに正面から見ようとしていたに違いない。そのために駆け落ちという最後の手段に陥ったのだろう。相手とどちらかが裏から見ることができていれば起こらなかったことに違いない。
そういえば、彼女が言っていた話を思い出した。あれからかなり経っているのに、今さら初めて思い出したのはなぜだろう。記憶の奥に封印していたに違いない。
「私をここに案内してくれた人、しばらくして聞いた話で、自殺したらしいの」
と言っていた彼女の表情に少し恐ろしさを感じていた。
彼女が粕屋に興味を持ったのは、ある一定の人を惹きつける魅力があるからかも知れない。彼女にも同じイメージがあった。粕屋自身が惹き付けられたわけではないが、自殺した男が惹きつけられていたのかも知れない。
一定の人を惹きつけるが、一人の人と別れると、もう二度とその人とうまく行くことはない。
ある種の女王蜂に刺されると一回目には免疫ができて、二回目には中毒で死に至らしめるらしい。
彼女は言わなかったが、彼ともう一度出会ったのかも知れないと、粕屋は思っていた。そして自分が彼女の話を封印したのは、考えていれば、いつかまた彼女に出会ってしまうのではないかと感じたからだ。
昔話でも、封印を解いてしまった戒めがラストシーンだったりする。粕屋もそのイメージを拭いきれなかった。
作品名:短編集110(過去作品) 作家名:森本晃次