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短編集110(過去作品)

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 じっと見ていても分からない。ただ、見れば見るほど霧が濃くなってくるように思えてならない。そのうちに、見えていたものが見えなくなってしまいそうで、ただ、手すりを持って見つめているだけだった。
 今までであれば、同じ光景をじっと見続けていれば飽きてきて、時間を果てしなく長く感じられるようになるものだが、その時だけは時間の感覚が麻痺してしまったかのようであった。
「同じような流れに見えても、絶えず違う顔を示しているでしょう? 私は滝のそんな姿が好きなんですよ」
 鉛筆を走らせながら、彼女が話してくれた。
「そうですね。決して同じではないですよね。それにしても、だんだんと霧が濃くなってきましたね」
「そうかしら? 私にはそうは思えないわ。濃くなってきたということは、まだまだ滝の勢いに目が惑わされているのかも知れないわね。私も最初はそうだったのよ。原因が分かるまでには、少し時間が掛かったわ」
「原因?」
「ええ、私も最初来た時、男性が一人で佇んでいたんですの。その人から教えてもらいました。まったく同じに見える滝の勢いの中で、集中させる場所さえ分かれば、すべての流れを掴むことができるんですって。私もその話を聞いて、滝を見つめていたものよ。でもね」
「でも?」
「ええ、そうやって目を凝らして見ているうちはダメね。あなたにもきっと分かる時がすぐに来るわ」
 と、含み笑いを見せながら話していた彼女の表情が印象的だった。
 彼女は続ける。
「その人はね。私をこの下にある洞窟に連れて行ってくださったの」
 と指で、滝の奥にあるであろう洞窟を指差した。
「あそこに洞窟が?」
「ええ、その洞窟は、滝の裏側から、滝を見れるように設計しているらしいんですよ。その人の話にはなぜか信憑性があって、思わずついていきました」
 まるで、おいでおいでをするように、手招きをしながら、彼女は滝の横にある道を降りていく。その後ろを粕谷もついて降りていったが、時々後ろを振り向く素振りは、警戒心の表れかも知れないと思った。
 滝の轟音が聞こえる中、叫んでも誰も助けに来るはずもないところ、もし相手がオオカミのような男であったらどうするのだろう。ひょっとして彼女はそれなりにスリルを味わっているのではないかとまで勘ぐってしまう。
 静かで無表情な雰囲気は、どこにも怯えなど感じさせないが、本当はものすごい怖がりなのかも知れない。怖がりなくせに、怖いテレビ番組を見たがるのは女性の愛嬌のようなものだと思っていたが、彼女の中にそんな愛嬌があるのかも知れないと思って見ると、次第にチャーミングな表情に見えてくるから不思議だった。
「私がね。その人についていったのは、その人と初めて会ったような気がしなかったからなの。どこかで遭ったことがあるような雰囲気があったので、最初は怖かったんだけどついていったのよ」
 彼女の言葉を聞いて、自分の中にも同じような気持ちが芽生えているのではないかと思えてきた。初めて出会ったはずなのに、初めてでない感覚。高校の頃には何度か感じた感覚だった。
 初めて出会う親戚のおじさん、父親に顔の雰囲気も似ていることからすぐに馴染めたが、それだけではなかったように思う。駅まで迎えに行く途中、どんな表情で自分を迎えてくれるかなど、想像できたのだ。
 顔が似ているからといって、父親とは表情が違っている。初めて会った気がしないのは、父親に似ているからだとずっと思ってきたが、彼女の話を聞いておじさんの顔が浮かんだということは、彼女が出会った人に感じた思いが、粕谷の中にあったおじさんへの中途半端な思いを完結させてくれたのかも知れない。
 洞窟の入り口まで降りてくると、足元は完全にぬかるんでいる。足の踏み場を考えながら、下ばかり見ていると、気がつけば入り口まで来ていた。
 入り口まで来ると、不思議と霧は掛かっていない。すぐ横に水しぶきが上がっているのに、霧が掛かっていないのは納得できないはずなのに、その時は、あまり気に留めていなかった。
 彼女の言うとおりに中まで入ると、中はヒンヤリとしていた。そこまでは想像できたが、耳鳴りが聞こえたのだけは想像できなかった。
「耳がツーンときますね」
 唾を飲み込み、何とか耳の通りをよくしようとするが、どうにもうまくいかない。山登りが好きで山には何度も登っている粕谷なのに、どうしても耳の通りをよくすることはできなかった。
「ここって不思議な世界でしょう? きっと湿気の強さが想像以上なのかも知れないわね」
 それでも中まで来ると、少しは感覚に慣れるもので、次第に気にならなくなった。またもとの道を通って上まで戻れば、耳も元に戻るという確信があるからだろう。
 次第に真っ暗になってくる。それでも懐中電灯もないのに、よく彼女はあまりいいとは言えない足元を、平気で歩けるものだった。一緒について歩いていても、不安で仕方がない。
「ザーザー」
 そのうちに音が戻ってきた。滝の裏側が近いに違いない。するとさっきまでの耳の通りの悪さがウソのようによくなってきたのだ。
「私が本当に見せたかったのは、滝の裏側じゃなくて、それまでの道だったのよ」
 滝の裏側の明かりに照らされて、こちらを向いた彼女の顔が怪しく歪んで見えた。だが、それは一瞬で、気のせいだったのかも知れない。
「それはどういう意味だい?」
「その人も、ここに来た時に同じことを言ったの。私は分からなかったわ。でも、今ここであなたに同じことを言うと、分かってきたような気がするわ」
 きっと、聞いても同じだろう。彼女のように、また誰かをここに連れてこないと同じ感覚を味わえないように思えてならなかった。
 前に来たという男性のことが気になっていた。彼女から話を聞いている限りでは、落ち着いた男性であることは想像できる。
「その人は、ここに一人で来たんですか?」
「ええ、そのようですね。私も最初、その人がなぜここに来たのか、とても興味があったの。でも、この場所に来て、そんなことはどうでもよくなったわ」
 と彼女から見つめられると、不思議なことに、まるで気持ちを見透かされているように思われてならなかった。
 それまでは無意識だったが、初めてその時に、彼女が一人でこの温泉宿に来たのかが一番興味のあることだったということに気付かされた。
 何が一番気に掛かっているかということまで分からなくなるほど、その時の雰囲気は異様だった。初めて来た世間から隔離されたような寂れた温泉宿、さらに、その奥に、現世を逸脱したかのような幻想的な滝、その裏から、表を見ることができる場所へと案内してくれた一人の女性。どれを取っても、感じていることすべてが後から思い出す方が現実味を帯びていた。
 ただ、彼女のことを後から思い出すことが何度もあった。その時の彼女の表情が頭から離れない。
 あの時もそうだった。
 粕谷は女性に興味を持つのが遅かったせいか、女性を見る時にはどうしても性的イメージを抱かずにはいられなかった。そのことを気にしていたのだが、女性に興味を持つのが遅かったからだという理由で、何とか自分を納得させていた。
 クラスメイトの男子のほとんどは中学に入る頃には、女性への興味を抱いていた。
作品名:短編集110(過去作品) 作家名:森本晃次