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短編集110(過去作品)

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 と思っていたが、彼女と偶然廊下ですれ違った時に、彼女への第一印象で納得がいった。顔色が悪く、下ばかりを見ている。
 大学の頃はあまり大人の女性に関心がなかった。可愛らしくて妹のような女の子ばかりに目が行っていた。その理由は今になって分かってきた。
 一番の理由はコンプレックスがあったからだろう。
 大人の女性とは会話をしてもついていけないという思いがあった。あまりファッションにも興味がなく、話題性にも欠ける大学時代の粕谷は、彼女がほしいと思っていながら、どこか積極的になれないところがあった。
――何を話したらいいんだろう――
 男の友達に今さら聞くのも恥ずかしい。しかも、言われることが何となく分かっていたからである。
「それはその人それぞれさ。自分で考えろ」
 きっとそう言われるだろう。そう言われてしまっては、その後に続く言葉が出てこない。一人ポツンとその場に置き去りにされてしまった気がするに違いない。顔が真っ赤になっている自分を想像することができるくらいだ。
 大学に入ってから、それでも結構本を読んでいた。高校時代までは読書が大嫌いで、国語のテストも、文章をろくに読むこともなく勘で答えていたくらいである。
 算数のように理論付けて物事を考え、一つの答えを導き出すのは好きなのだが、漠然としたことは苦手だった。国語のようにいくらでも解釈できてしまうことに自分の中で疑問を抱いていることが、本を読むことを知らず知らずのうちに拒否していたのかも知れない。
 焦りもあったのだ。
 テストの時間は決まっている。時間配分を考えていると、目先の時間は長く見えても、先にいくほど時間が短く感じられる。時間に慣れてくるという感覚なのだろうが、規則的に刻んでいるものの先は見えないものだという不安感が自分の中にあった。
 きっとそれは粕谷だけではないだろう。将来について漠然と不安を感じている人は大いに違いない。だが、本当に漠然としていれば意識も小さいのかも知れないが、糟屋は先を見ようとしてしまう。まるで規則的に刻まれた時間の先を見ているようである。
「見えすぎるというのは、困ったものだ」
 中学時代の友達の話だったが、話を聞いてみると、見えそうで見えないものを見ようとするのは本能で、漠然としたものまで見たくなってくる。それが自分の中で消化できないと、焦りに繋がるというのだ。
 その話は一緒にテスト勉強をしている時だったので、ちょうど国語のテストを思い浮かべていた。それで、自分が焦っていたことに気付き、それからは、焦ることなく落ち着いてテストを受けようと考えたが、それも付け焼刃ではうまくもいかない。
 それでも読書に対しての違和感はなくなり、まず読み始めたのが雑学の本だった。
 新書と呼ばれるものの中には、面白おかしく雑学を書いているものも多い。挿絵などが書いてあると、それこそ簡単に読めてしまう。本屋や図書館に立ち寄るのは好きになったのは、ちょうどそんな時期だった。
 宿に着いたのは昼頃だったが、なかなかその女性に出会うことはなかった。
「彼女は、何か絵を描かれるということで、日が暮れるまでどこかに行っているようですよ」
 粕谷が彼女を気にしていると察したのだろう。なるべく気付かれないようにしていたはずなのに、さすがである。
 客商売だからだろうか?
――所詮、田舎の温泉宿の人間だ――
 そんな思いが頭の中にあるのかも知れない。
 そんなことを感じるのは、人間として恥ずべきことだと分かっている。分かっているつもりでも感じてしまうことに人間の悲しい性を思い知らされる。
 性というだけで自分を納得させようとしても、なかなか承服できないところがあるのは、自分の中の理性が、自分を戒めているからだろう。
 時々鬱状態に陥ることがある。それは、自分の理性がその時に置かれている自分の精神状態を認められないと考えるからだろう。だが、実際に、
――考えられないわけではない――
 と思えば思うほど、鬱状態では、何も考えられなくなっている。
 同じことを繰り返しているように思う。袋小路に迷い込んでしまった感覚に、中学時代に住んでいた住宅街を思い出す。
 少し小高い丘になったところが住宅街。その奥にあるマンションに父母と住んでいた。学校は住宅街を下って、少し行ったところにあるので、どうしても住宅街を抜けなければならなかった。
 友達もほとんどが住宅街の一軒家に住んでいて、羨ましいとは思っていたが、実際に父親が分譲住宅を購入し、一軒家に住むようになると、最初の期待ほどの感覚ではなかった。
 なるべく感情を表に出さないようにしようというのは、本能から来ているのかも知れない。
 特に女性と二人きりになれば何を話していいか分からない時期があり、さらに他に人がいると、輪の中に埋もれてしまう傾向があった。目立ちたいと思う中で、自分が一歩踏み込めない何かがあるのに気付いてはいたが、それが何か分からないでいた。
 住宅街は、ほとんどが袋小路のようだった。道を曲がればまた同じような光景が広がっている。
 デジャブーという言葉を聞いたのはちょうど中学の頃ではなかったか。初めて見たものが初めてではないと思う感覚。それは最初にどのようなインパクトを感じたかということに由来するだろう。
 住宅街を初めて見た時にも、
――初めてではない――
 と感じたように思う。
 だが、本当であろうか?
 初めてではないと感じたのは後になってからかも知れない。初めて見た光景であっても、それから毎日のように見ていれば、どれが最初に感じたことか分からなくなってしまうのかも知れない。
 デジャブーとは、そんな人間の心理の盲点を突いたものだという理論を書いた本もあった。
 それを読んでいて、さらに自分がデジャブーに陥ったような気がした。それすら、以前から感じていたことのように思えるからだ。
 いろいろな思いが交錯する中、デジャブーを感じると思い出すのが、住宅街の袋小路である。
 袋小路で出会った人も少なくはない。出会ったというよりもすれ違っただけの人も含めてのことだが、考えてみれば、いつも同じ時間に同じ道を通っていて、しかもすれ違う人も一緒だったように思う。だから、同じように見える袋小路も、どの角を曲がったのかは、すれ違った人で分かっていた。
 すれ違った人の表情は、皆同じだった。無表情と言ってもいい。しかし、その中でも、お互いにそこか意識しているのを感じていた。ピリピリした緊張感があるのを感じていたのだ。
 相手に見られているという思いがあっても、毎日同じようにすれ違うだけで、挨拶を交わすわけではない。それは粕谷と誰かだけではなく、他の人同士でも同じことに違いない。それを想像すると、時間が固まって感じるのはおかしなものだ。
 夕方になると、一人の女性が宿に帰ってくる。肩から掛けた道具は、旅館の人が話していたように絵画に使うもののようだ。
 一見、画家には見えず、きっと趣味で描いているのだろうということを想像させられる。はすかいにかぶった帽子で表情は分からなかったが、疲れているようにも感じたが、どこか満足感を感じた。一日が充実していたのではあるまいか。
作品名:短編集110(過去作品) 作家名:森本晃次