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自殺と事故の明暗

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 あれから、もう六年近くは経っているだろうか。気が付けば、なつみは大学生、みゆきは高校生になっていた。二人の節目の時にはいつも辰巳刑事か清水刑事が必ずお祝いをしてくれた。どうしても事件で忙しい時は、どちらかということもあったが、それでも二人は嬉しかった。幸いなことは、二人が同じ学年だということだ。卒業、入学祝の時期がずれることはなかった。しかも、二人とも何とか一発合格だったことも、さすがと思わせた.。なつみはともかく、みゆきが一発で合格したことは、よかったと思っている。ギリギリのラインだっただけに、辰巳も清水も心配していた。しかし、実際に合格してみれば、それはまるで当然のことだったかのように振る舞っているみゆきを見ていると、
――この子は振る舞いで誤解されがちなんだろうけど、本当は天才肌なのかも知れない――
 と、なつみですらそう思うくらいだった。
 何と言っても、目の付け所がよく、想像力も豊か、そして信じたことは疑わない決断力も備わっていることから、彼女が天才肌であることを疑う余地は、どこにもないではないか。要するに見る方の目がおかしいだけなのだ。

                犯罪論と歴史学

 世間の常識を覆すというのは、一般的に誰もが感じていること、つまりは圧倒的多数であれば、それは常識になりうるだけの力を持っているということになるだけで、少数派が別に世間の常識に逆らっているというわけではない。どうしても民主主義の考え方から、過剰に多数を正義と思いがちだが、決してそんなことはない。何かを決定しなければいけない時、常識として考えられている方を選択するというのが民主主義的考え方で、多数決というのは、まさにそのことなのだろう。
 自由というのは、必ず競争が起きるもので、競争によって巻き起こる差別化や摩擦は、世間全体には好影響を与えるだろう。
 しかし、すべてにおいて好影響というわけではない。競争は勝者と敗者を呼び、まわりの目は必然的に勝者を強者と呼び、敗者を弱者と決めつける。この決めつけが恐ろしいのだ。敗者自身も自分のことを弱者だと思い込んでしまうと、一度の敗北で立ち直ることのできない状態に陥ってしまう。
 また、競争の産物である差別化と摩擦は、世間的には文明の発達を早める効果はあるのだが、それはあくまでも全体的に見てということであり、個人的には、強弱の差、つまりは貧富の差を歴然としたものにして、生活水準全体は下がることになるのではないだろうか。
 いくら世間全体が発展しても、個々の生活水準が落ち込んでしまっては、まるで、
「国破れて山河あり」
 とでもいうべきなのではないだろうか。
 そういう意味での急激な民主化がどのような結果を生むかは歴史が証明していることだろう。しかしそんな民主主義の悪いところを是正する意味で生まれた共産主義的考え方も、政治的に利用されると、独裁制を生み、個人の貧富の差をなくすことが目的だったはずなのに、元々よかったはずの社会全体の発展がまったくなくなってしまい、そうなると、個々の生活水準どころの話ではなくなってくる。貧富の差が解消されたわけではなく、富裕層がまったくいなくなって、一部政治家、財閥など、特権階級なる人たちだけが利益を貪ることになる。つまり住民にいくはずのお金がすべて、一部の人間だけで分散されるという構図はまさに悲惨である、情報統制や恐怖政治が蔓延ってしまい、逆らうと投獄、拷問、何でもありの恐ろしい世界になることだろう。
 すべての共産主義国がそうだとは言わないが、少なくとも歴史上の共産国はそうやって生き延びようとして、結局息づあったことで、崩壊してしまうことになったのだ。
 しかもその後の急激な民主化で社会は混乱する。これも歴史が証明している。
 資本主義、民主主義世界にとって、共産国政府は撲滅すべき、
「仮想敵国」
 でしかないのだ。
 みゆきとはさすがにこのような硬い話はできないが、なつみの方は結構、歴史の話は好きなようである。大学も、
「歴史に進むか、法律に進むか」
 の二択だった。
 前述のように、一択と公言しておきながら、最初に迷ったのは歴史とであった。
 確かに歴史というのは、法律とは切っても切り離せない関係にあるだろう。独学であっても、勉強してみると結構面白い。法律を独学するよりもかなり簡単だ。何しろ歴史は事実の積み重ねであり、一つ一つ理解して時系列に準じて進めば、たいていのことは分かってくるはずである。
 しかし、法律は用語も難しければ、何と言っても解釈が問題になってくる。法律に書かれていることは一つであっても、その時々で解釈が違う。人間が裁いているのだからそれは当たり前のことであり、しかも、刻一刻と変わる社会情勢に照らせば、それも当たり前のことだ。
 たとえば、似たような事件であっても、その背景にどれほど社会的な反響を呼ぶかで判決も変わってくる。極端な話、同じ暴行殺人であっても、相手が幼い女の子である場合と、主婦である場合、あるいは、独身女性によっても変わってくる。さらに、犯人が一般人か、メディアへの露出度が高い人間であれば、
「社会的影響が大きい」
 という理由で、罪が重くなったりする場合もある。
 どこか理不尽なところもあるが、確かに芸能人やスポーツ選手、政治家などは、世間的にもマスコミの餌食になったりすることで、社会的な影響も当然大きくなってくる。
 なつみは、最初、
――そんなのは理不尽だ――
 と思っていたが、最近ではそうでもなくなってきた。
 逆に皆同じ判で押したような裁きであれば、そもそも裁判など必要がない。被告を刑法に照らして、裁判官の裁量で決めればいいだけだ。何も裁判を開いて、検察側、弁護側に分かれて、何度も証人尋問を行ったりして、時間をかける必要などないからだ。
 検察は法律に則った求刑を、警察が捜査した事実と、証人の証言を考慮して、言い渡すことになる。弁護士は、被告が犯人であることは間違いとなれば、いかに減給させようかを目指す。もちろん、無罪の可能性があるのであれば、何とか無罪に持ち込もうといろいろ考える。下手をすれば、被告の精神鑑定までも求めることになるだろう。
 弁護側はあくまでも被告の利益を守る。それが弁護士の使命であり、存在意義でもあるのだ。それができなければ、弁護士としての資格がないと言ってもいいだろう。
 時には弁護士はえげつないことをする。
「何もそこまでしなくても」
 と言えるような、欺瞞と思える行為を行うこともあるが、あくまでも被告の利益を守ることが最優先なのだ。
 真実がいくら被告の罪状を指し示していても、いかにして情状酌量を目指すかという点で、法律すれすれを考える。これも弁護士としての立派な仕事なのだ。
 確かに冤罪というものはあってはならないが、過剰な被告への擁護によって、被告が無罪放免になったりしても、それが世間のためによかったのかどうか、難しいところである。
「犯罪者は、同じ犯罪を繰り返す」
 とよく言われる。
 無罪放免にしてしまったということは、そんな野獣のような犯人を野に放ったことになる。
 しかも、絶対に処罰は免れられないというところを免れたのだ。普通の人なら、
作品名:自殺と事故の明暗 作家名:森本晃次