自殺と事故の明暗
むしと、みゆきのように自分にはない思い付きは発想を兼ね備えた女の子に惹かれるというのも、自分が男であることの証拠だと思い、他の誰に惹かれるよりも、よかったのではないかと思うようになり、それが嬉しかった。
くちでは、いつも、
「この小娘が」
であったり、
「小娘のくせに」
という言葉を使っているが、決して毛嫌いしているわけではない。
確かに出会った最初はそんなところがあったが、すぐに打ち解けることができた。それは自分の裁量からではなく、みゆきの裁量によるものだと分かったからだろう。
とにかく、彼女に対しては一目置く辰巳刑事だったが、、それがいつしか惹かれていく自分がいとおしく思えるほどだった。
――警察官のくせに――
とは思うが、
――俺だって一人の人間なんだ――
と感じるようになったのは、明らかにみゆきと知り合ってからだったことに間違いはない。
服部刑事がいうように、みゆきの顔を見た凛子は、少し何かを思い出しているようだった。凛子の記憶喪失は、近い過去を思い出すよりも遠い過去、つまり子供の頃の過去を思い出す方が思い出しやすかったということなのか、それとも大人になってからの忖度や駆け引きなどの複雑化記憶よりも、子供の頃の素直で単純な記憶を思い出す方が楽だったということなのか、よく分かっていなかった。
だが、凛子の記憶が戻りつつあるということは誰も知る由もない、明らかに凛子氏か分からないことだった。
そんな凛子のことを真剣に心配し、
「少しでも役に立ちたい」
という素直な気持ちを、みゆきが持っていたことは当然のことであろう。
この日、みゆきは家に帰ってから、なつみに凛子と久しぶりに出会ったことを話した。凛子の存在を姉のなつみも忘れるわけもなく、懐いていたのはみゆきの方であったが、
「可愛い妹がお世話になっている」
という意味で、なつみは凛子に対して一目置いていた。
「そうなんだ。凛子さんは記憶喪失か……」
と、凛子は頭に記憶の中の凛子を思い浮かべた。
そして同時に、今こうやって昔の凛子を想像している自分にできることが、今の凛子にできないことを悲しく思った。この感覚はみゆきが最初に凛子を見て、その後、彼女に記憶がないことを聞かされた時に、同じことを感じた。
みゆきは凛子を生では見ているが、そこにいたのは、自分おことを分からない。みゆきの知っている凛子のことを思えば、まるで抜け殻になってしまったかのように見えて、みゆきも悲しかった。
以心伝心というべきか、みゆきもなつみも相手が考えていることが分かる時がある。この時はそうだったのだ。
お互いに何を考えているのかが分かる時というのは、えてして、二人の間に第三者が介在していることが多い。第三者というのは、自分たち二人を除いたすべての人のことをいい、肉親や親しい人であっても、まったく関係のない、文字通りの第三者の場合もあるのである。
もちろん、凛子の場合はいくらしばらく会っていなかったからといって、親しい人であることは間違いない。ただ今の凛子にはその感覚がなく、あくまでも、まだまだ記憶の奥に封印されているだけの状況でしかないのだろう。
「みゆきは、これからもちょくちょく凛子さんを見舞うつもりなの?」
となつみが聞くと、
「ええ、そのつもりなの。ダメかしら?」
と心配そうにみゆきは訊いたが、もちろん姉が反対するなど、これっぽっちも思っていない。
「ダメなわけないじゃん。今こそあの時の感謝を返す時だわね。みゆきを見て思い出してくれるのであれば、おねえちゃんも嬉しい」
と言ってくれた。
「お姉ちゃんも一緒にお見舞いに行かない?」
と言われて、
「いいのかしら? 私も久しぶりに凛子さんにお目にかかってみたいわ」
とむつみがいう。
「もちろんよ。私明日も行ってみるつもりなんだけど、お姉ちゃん、どうする?」
「明日は、午後の講義もないので、行けるわよ。じゃあ、明日あなたの学校が終わってどこかで待ち合わせましょう」
と言って、みゆきの学校の近くの喫茶店で待ち合わせをすることになった。
凛子が入院しているF大学附属病院までは、バスで二十分ほどのところにあった。二人は日が暮れる少し前に病院に到着し、西日の当たる病室で、一人表を見ながらベッドの中で身体を起こしている凛子を見かけた。
相変わらず頭には包帯が巻かれていて痛々しさが見ているだけで胸を刺したが、なるべく二人はそんな気持ちをお首に出すこともなく、
「こんにちは、凛子さん。今日は姉を連れてきたんですが、覚えてらっしゃいますか?」
と訊いてみた。
記憶喪失の人間に、
「覚えていますか?」
と聞くのはおかしな話でもあったが、これはわざとそう言ったのであって、どのような反応を示すのかを確かめたかった。
きょとんとしている様子だったので、やはり、覚えている様子ではなかった。
みゆきは、アイコンタクトで姉に対し、
「やっぱり、覚えていないでしょう?」
という意味で一度頷いてみたが、姉の方も、
「ええ、そうね。この様子は典型的な記憶喪失のようだわ」
と、姉も同じように妹を見て頷いていた。
二人の間ではこのような仕草は今までにも何度も見られた。だからと言って、普段からこのような特殊能力が発揮できるわけではなく、気が付けばできるようになっていた。
「時々、私、凛子さんとお会いしたいので、入院中でもちょくちょく寄らせていただきたいわ。それで凛子さんの過去が戻ってくれれば嬉しいし、今の現状を私ができるだけ凛子さんにお伝えすることができればって思います」
というと、凛子さんは、
「過去と、現状ということですね? 私には今はどちらも備わっていないような気がします。それはきっと現状というのは、過去からの現実の積み重ねが今の現状となるわけでしょうから、過去が欠けているのだから、当然のことですよね」
と言った。
凛子はさすがに教師をできるだけのことはあって、理屈的なことには、冴えている人だった。記憶がないだけで、過去が戻ってくれば、きっと素晴らしい人間が形成されることであろうと、みゆきもなつみも感じていた。
「私も凛子さんの過去が一日も早く戻ってこられるように応援します。妹が来れない時など、私が来れる時は来たいと思っていますよ」
となつみも言った。
「ありがとうございます。私はとにかく過去が分からないことが不安なんです。ただ、取り戻した過去に何があるのか、自分でも分からないだけに、非常に怖いんです。普通なら過去の自分を思い出せる何かを、私の知り合いや友達が持ってきてくれて、見せてくれるものではないかと思うのですが、私のところに来てくれる人はほとんどおらず、みゆきさんとなつみさん以外では、警察の方くらいなんです。本当に私の過去は存在しているのかっていう不安もかなりあるんですよ」
と言った。
それを聞いて、なつみもみゆきも驚いた。
「凛子さんのような面倒見がよくて素敵な方に、お友達は同僚、先輩のような方が寄り添っていないのかというのが私も不思議でした、でも、少なくとも私たちがいます。どんなことがあっても、凛子さんを守ります」
とみゆきは、自分の覚悟を表明した。