自殺と事故の明暗
何においても不利なのが、暴行を受けた時、彼女は気絶していたということだ。抵抗の痕が見られないことから、相手に、
「合意の上であったのでは?」
と言われてしまえば、それまでだった。
「こんなところで大げさにして、恥をかくのは先生ですよ」
とでも言わんばかりの雰囲気に、彼女は提訴を諦めるしかなかった。
幸いにも妊娠はしていなかったので、秘密裏にことを運ぶことができたのだが、憔悴な彼女に対して、誰も何も言わなかった。腫れ物に触るかのような態度にいたたまれなさを感じ、彼女はすぐに学校を辞めた。
しばらく休養をしているうちに、もう一度教師の話が来た。その人は高校の時の恩師で、今はK市の高校で教頭をしているという。いつも温厚な人で、彼女が暴行された時もねぎらいの言葉をかけてくれたのは、その先生だけだった。学校を卒業してから何年も経つのに、よく忘れずに覚えてくれていたと感謝した。
そもそも、自分が教師を志したのも、その先生がいたからだった。まだショックは残っているし、二度と教師をしたくないという思いもあったが、先生のことだから、
「もう大丈夫だろう」
と感じたのではないだろうか。
そう思うと彼女も、もう一度教壇に立ってみようという勇気が湧いてきた。少し怖さもあったが、あの時は学校が悪かっただけだと思って割り切ればいいと思い、そして、
「辛かったら、いつでも相談してくれていいからね」
と言われたことも励みになった。
「はい、じゃあ、お世話になります」
と言って、K市の高校に赴任したのだが、ここでは前の学校のようなひどさはなかった。
生徒にも馴染めてきたので、少しずつ教師としての自信がよみがえってきたことは自覚してきたのだが、事故に遭ったのは、そんな矢先だった。
今は病院のベッドで、意識不明であったが、命には別条はないという。
「このまま目が覚めないということは考えにくいので、大丈夫です」
ということだったので、まわりは安心していた。
そんな彼女が目を覚ましたのは、ちょうどマンションでの飛び降り自殺があったその日の夜だった。
過去と現実
入院してから三日が経ち、ずっと付き添ってくれていた教頭だったが、さすがにきつくなったのか、四日目には、
「一度、家に帰られた方ですよ」
という校長先生の意見もあり、
「そうですか。では一度引き揚げます」
と言って、家に帰っていた。
教頭としても、良かれと思って彼女を招いて、せっかくこれからだというところだっただけに、そのショックは計り知れないものがあった。
それに教頭は彼女の教育に対しての熱心さに共感していて、
「この学校をよくしてくれるのは、彼女のような人だ」
と思っていた。
かなりの評価をおいていたのだが、その評価が正しいのではないかと、まわりの先生も気づき始めていた時だったので、まわりの先生も他人ごとではないと思うようになったいた。
そんな彼女が事故に遭って、意識不明。教頭の憔悴は酷いものだった。
入院中もずっと付き添っていて、夜中も目を覚ますのを今か今かと待ち続けていた。だが、さすがに年齢には勝てないのか、三日目の昼過ぎに、貧血を起こしてそこから点滴を受けたくらいになっていた。
これは運命のいたずらか、誰も知らないことであったが、教頭の意識が薄れた瞬間、その瞬間がちょうど、あの飛び降り自殺があったその瞬間だったのだ。
それはさておき、点滴を終えた教頭は、校長先生の勧めや、医者の進言によって、一旦引き上げることにしたのだが、彼女が目を覚ましたのが、その夜だったというのも、何とも皮肉なことだった。
ただ目を覚ましただけであれば、彼女の目覚めに立ち会えなかったことを、
「残念だった」
と言えるのだろうが、
「その場にいなくてよかった」
とその後で言わしめたのは、彼女が目を覚ました時、記憶をほとんど失っていたからだった。
意識が朦朧としていたわけではないが、その視線は一点を見つめて、何を考えているか分からない状態。そんな状態でも果たして、
「目が覚めてよかった」
と言えるだろうか。
間違いなく、手放しで喜べる状況ではない。そんなことは誰が見ても一目瞭然だった。警察の人が、
「彼女の目が覚めた」
と言って駆けつけたが、本人は何があったのか覚えていないとしか言わない。
だが、とにかく何かにひどく怯えているようで、警察官に対しては特に異常なほどの怯えを感じていた。
また、そこが病院であることも彼女にさらなる怯えを感じさせた。白衣を見るだけで頭痛を感じるくらいで、彼女の事情を知らない人は、何が起こったのかとただうろたえるばかりだった。
その時、彼女の記憶が失われていることを知った皆は余計に、
「何が彼女をそんな恐怖に見舞わせるのだろう?」
と思った。
しかし、彼女の過去を知っている教頭先生は、
――この恐怖は今の恐怖ではなく、前の事件を思い出したからなんだろう――
と分かっていた。
時に記憶を失っていると聞いた時、余計に過去の忌まわしい思い出が、必要以上に彼女を不安に陥れ、思い出さなくてもいいことだけを思い出させるという負の要素を醸し出していた。
それはまるで、
「覚えている夢というのは、ほとんどが怖い夢だ」
という感覚に似ているような気がした。
覚えている夢は確かに怖い夢が多い。しかも今の彼女には何が怖いのかという感覚がマヒしていた。それは、礼の暴行事件があってからのことで、恐怖におののいた瞬間、気を失ってしまったことからも、
「逃げ出したい」
という衝動に駆られた時、
「肝心な意識を失ってしまうという思いから、彼女は記憶を失ったのかも知れない」
と感じたのは、教頭だったのだ。
教頭先生は、彼女に面と向かって会ってみたが、教頭の前では落ち着いている。しかし意識が朦朧としていて、それはまさに、
「普通に記憶を失った人間そのもも」
であったのだ。
絶対的な信頼を寄せる教頭の前でもそうなのだから、普段のあの怯えがどれほど彼女にとってひどいものなのか、外見での判断だけでは済まないものがあるのだった。
教頭の通報で、担当刑事がやってきた。
K警察署から、服部刑事がやってきたのだが、服部刑事も実は教頭の教え子であった。被害者の女性から見れば数年の先輩にあたるのだが、服部刑事にはもちろん、被害女性の学生時代を知ることはなかった。
しかし、教頭が信頼して呼び寄せた教師だということで、まだ話すらできていなかったが、話を聞いただけで、一定の敬意を表していた。そして早く目を覚ますことを彼なりに祈っていて、
「早く話が効けるようになればいいな」
と思っていた。
教頭から連絡を受け、取るものも取りあえずに病院に出かけてきたが、
「彼女はほとんど記憶を失っているようだ」
と教頭から聞かされ、かなり意気消沈しているようだった。
「それは残念です」
と、服部刑事は答えた。
もっとも、服部刑事も彼女が意識を取り戻して、記憶があったとしても、ほとんど情報は得られないと思っていた。何しろ、咄嗟のことであり、記憶が曖昧なのは当たり前だと思ったからだ。