自殺と事故の明暗
父親とは離婚してから連絡を取り合っていなかったようで、連絡先も分からないという。どうやら少し複雑な家庭環境のようだった。
「娘がひき逃げ事故に遭うなんて、どういうことなんですか?」
と、捜査をしていた刑事に詰め寄ったが、状況しか分からず、刑事の方もどういっていいのか困っていた。
「犯人は、必ず逮捕します」
としか言えない担当刑事は、自分に苛立っているようだった。
だが、こういう事件は日常茶飯事に発生していることであり、交通事故など毎日のように何十件と発生し、死亡者も出ている。中には今回のような理不尽なものも少なくはないのだ。
ただ、それにしても、今回の事件は酷かった。全国ニュースにもなったくらいで、ただ犯人が捕まっていないことと、捜査に進展がまったくないので、それ以上のニュースにもなっていない。
もっとも、少々の進展があったくらいではニュースになることもない。何しろ新聞が毎日発行されるだけのボリュームで作られるほど、世の中には事件や犯罪、話題になりそうなことが溢れている。
被害者も捜査員も、世間の話題から取り残されたことを悔やむようなことはないだろう。しかし、本人たちには決してこの事件が、「過去」になることはない。いつまでも続く忌まわしい現実なのだ。
「現実だから、過去ではない」
という発想はかなり奇抜ではあるが。過去という言葉を使ってしまうと、自分の中で何か一つの結論がついてしまったような気がして嫌なのだ。
一つの区切りはあるかも知れないが、何をもって結論というのか、難しい、例えば今度のような事故で、犯人が捕まったとしても。それは一つの区切りであって、結論ではないのだ。
そのことを果たして誰が分かるというのだろうか。
被害者の女教師にも、
「人には言えない過去」
があった。
それは、新任の先生として赴任してきてから、すぐのことだった、
学校自体も問題児の多い学校で、先生の定着率もあまるよくなかった。その学校は、生徒も生徒なら、先生も先生で、理事長というのが、PTAとズブズブだったようで、生徒に何かあるたびに父兄の方から金銭の授与があり、不問に付されたりなどが横行していた。
教師として燃えて赴任してきた学校が、まさかそんな学校だったなど思いもしなかったが、最初は生徒ばかりに問題があると思っていたのに、まさか教育者側迄腐っていたことを知ると、かなりのショックだったようだ。
そのショック状態で、さらに追い詰められるようなことがあった。
これは表には出ていなかったことだったが、彼女は生徒の一人に暴行されたのだった。普段は大人しそうにしている生徒だったので、
「先生に相談があるんだ」
と言われて、誰もいない教室で彼と二人きりになっても、怪しいとは思わなかった。
むしろ逆に、自分を頼ってきてくれた生徒に感謝したくらいだ。こんな学校に赴任させられて、どうしていいか分からないところに一人の生徒から、
「相談がある」
と言われたのだ。
教師になってから初めての相談に、どう答えていいのか不安に感じてはいたが、それでも自分を頼りにしてくれる生徒がいると思っただけで、不安よりも、正義感、責任感の方が強かったのだ。
実際に教室に行ってみると、誰もいなかった。その生徒は一人一番前の席に鎮座していて、彼女が来るのを待っていた。
先生が入ってくると、挨拶もほとんどなしに、悩みを言い始める。
「俺、どうしていいか分からないんだ」
「何がどうしたっていうの?」
「こんな気持ち、先生にだってあるだろう? 人を好きになったことだってあるはずだから」
と、相談内容が、恋愛問題であることを、その生徒は自ら惜しげもなく明かしたのだった。
「その人に告白したいの?」
「そうなんだけど、嫌われたらどうしようとかいう思いじゃないんだ。嫌われるかも知れないという思いは正直ある。だけど、それだけじゃないんだ。今のどうしていいか分からない気持ちを、相手にも知ってもらいたいという気持ちが一番強いのかも知れないんだ」
「それは難しい問題ね。それだけあなたがその人のことを愛しているということなのかしら?」
「そうかも知れないが、そうじゃないかも知れない。だから分からないんだ」
「もし、あなたが好きだと自分で分かっていないんだったら、告白したりすると、もし勘のいい女性だったら、あなたが自分のことを好きかどうかなどすぐに看破して、あなたのことを好きになれなくなる可能性はあるわね。そういう意味ではすぐに告白するということは危険を伴う気がするわ。あなたが自分の気持ちにハッキリ気付くまで、その人には告白はしない方が無難かも知れないわね」
と答えると、
「どうも、そうはいかないんだ」
「どういうこと?」
と女教師が聞くと、
「それは、もうすでに告白してしまったからだよ。俺はあんたの言う通りであれば、取り返しのつかないことをしてしまったのかも知れないな」
というではないか。
――この人は私に相談しておいて、相談内容を先に実行したというの? そんなの信じられないわ――
と思った。
だが、彼は次に言った言葉が、その疑問を消し去ることにはなるのだが、消し去っただけで、何の解決にもなったわけでもなく、逆に彼女を大きく巻き込んで、その時点から、抜けられない呪縛に落ち込んでしまったに違いない。
「俺が好きになったのは、先生、あんたなんだよ」
というではないか。
「えっ、私? 何を言っているの?」
すぐに事情が呑み込めない彼女だった。
まさか生徒から告白などされるとは思っていなかったのだが、自分も女である。いくら教え子とはいえ、嬉しくないはずもない。だが、照れ隠しのためなのか、若干大人びてしまう態度を取ろうとしたのだが、それがいけなかったのかも知れない。
若干、舞い上がっていたのかも知れないが、中途半端な気持ちがもっともいけないことだということに、その時気付いていなかった。その理由は至極簡単、それまで教え子はおろか、男性から告白などされたことがなかったからだ。そのことに対して舞い上がりと中途半端があったのだ、
しかも、そこでさらに、
「焦れしてやろう」
などという気持ちが働いた。
その理由は、彼が自分を好きだと言ったことで、自分の言うことには何でも従うだろうと感じたことだった。
そもそも、彼は彼女のことをハッキリと好きだと言ったわけではない。好きな気持ちに変わりはないが、背伸びをしたい男の子が、恥を忍んで恥じらいを捨て、一念発起で告白に至ったのだ、一ミリたりともからかう気持ちになってはいけなかったのだ。
それなのに、相手を焦らそうなどと考えるのは明らかに間違いだった。いくら新人教師だからと言って、生徒の心を弄ぶようなことはしてはいけない。しかも多感な時期の男の子、好きになった相手へ盲目になる反面、好きになったことで意地にもなっているのだ。大いなる緊張感が彼を包み、まるでピンと張った糸が今にも弾けそうな状態になっていることを本当は悟ってあげなければいけなかったのだろう。それが教師としての彼女の役目、彼女には教師としても、異性の相手としても失格だったのだ。